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熱烈! 傑作ダンギ アンリ・ルソー @日曜美術館

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これは、本日の日曜美術館のメモである。

熱烈! 傑作ダンギ アンリ・ルソー
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アンリ・ルソー(1844‐1910)
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アンリ・ルソー(1844‐1910)
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アンリ・ルソーの真作らしき作品が、フランス・ニースの「国際素朴派芸術美術館」に寄贈された。贈り主は匿名で、「ルソーの地元にある美術館なのに、ルソーの作品が少なかったから」という理由で寄贈したとのこと。作品には真作証明書が付いているが、念のため調査を行うとのこと。写真は(↓)、アンリ・ルソーの《漁師のいる風景》を嬉しそうに持つ女性。
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ルソーは1844年、マイエンヌ県ラヴァルに生まれた。
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ミュージシャン「グローバー」東京大学で美術史を専攻
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女優「鶴田真由」
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世田谷美術館学芸員「遠藤望」
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アンリ・ルソー《私自身、肖像=風景》1890年、 プラハ国立美術館
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遠藤望さん曰く:ルソーって、諦めない人。
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司会:高橋美鈴、小野正嗣
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アンリ・ルソー《眠るジプシー女》1897年
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ルソーは、1871年、パリの入市税関の職員となった。ルソーは税関に22年ほど勤務した後、絵に専念するため1893年には退職して、早々に年金生活に入っている。
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アンリ・ルソー《カーニヴァルの晩》1886年
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アンリ・ルソー《カーニヴァルの晩》部分
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長野・諏訪 ハーモ美術館 アンリ・ルソーの作品9点所蔵。
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関たか子ハーモ美術館館長、森全景同学芸員、グローバー・ミュージシャン
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アンリ・ルソー《釣り人のいる風景》ハーモ美術館
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《釣り人のいる風景》部分1:樹には影が付けられているが、人物には影がない。
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《釣り人のいる風景》部分2:樹には影が付けられているが、人物には影がない。
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《果樹園》1886年 ハーモ美術館
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《果樹園》《釣り人の居る風景》ハーモ美術館
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《果樹園》下部
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《果樹園》中部
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《果樹園》上部
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神奈川箱根「ポーラ美術館」
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アンリ・ルソー《エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望》1896-1898年 ポーラ美術館
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肖像画アンリ・ルソー《子供の肖像》1908年  オランジュリー美術館
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アンリ・ルソー《フリュマンス・ヴィッシュの肖像》 1893年頃 世田谷美術館
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アンリ・ルソー《私自身、肖像=風景》1890年、 プラハ国立美術館
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《私自身、肖像=風景》部分 日本地図?
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《私自身、肖像=風景》部分 日本国旗 ジャポニスム?
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《私自身、肖像=風景》部分 パレット  
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《私自身、肖像=風景》パレット 上下逆転 最初の亡妻クレマンスと2番目の亡妻ジョセフィイの名入り。
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1888年、最初の妻クレマンスが亡くなった。生まれた子供も幼くして亡くなり、2番目の妻ジョゼフィーヌにも1903年に先立たれるなど、家庭生活の面では恵まれていなかった。

《私自身、肖像=風景》を描いたルソーは、自分自身は「画家である」と表明している。
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遠藤望・世田谷美術館学芸員曰く:ルソーは「書割」が上手い。
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アンリ・ルソー《子供の肖像》1908年  オランジュリー美術館
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遠藤望・世田谷美術館学芸員曰く:《子供の肖像》↑は前衛的ともとれる作品であるが、ルソー自身は前衛や絵画の革命をおこそうとは全く考えていなかった。

密林の風景画
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晩年のルソー
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アンリ・ルソー《ヘビ使いの女》 1907年 オルセー美術館
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アンリ・ルソー《馬を襲うジャガー》1910年、プーシキン美術館
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この画は「プーシキン美術館展」@東京都美術館に出展中(7月8日まで)。

作家原田マハさん
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原田マハ「楽園のカンヴァス」新潮文庫
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アンリ・ルソーの作品は、良くなって進化している(↓)。
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アンリ・ルソー《夢》1910年  ニューヨーク近代美術館
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アンリ・ルソー曰く:幻想的な主題を描いていたある日、私は窓をあけなければならなかった。恐怖にかられたのである。
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女優・鶴田真由さん曰く:《夢》では、ルソーは三歩ぐらい“向こうに”入って描いているのでしょう。
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美術散歩 管理人 とら

本日のレトルトカレー 2018/7/4

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S&B 噂の名店 東京半蔵門 欧風ビーフカレー お店の中辛
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【内容量】 200g

【価格】(税抜)¥ 321

【辛味順位】5 中辛

【食塩相当量】 2.5g

【エネルギー】 367㎉

【原材料名】 野菜・果実(玉ねぎ、リンゴ、バナナ、しょうが、にんにく)、牛肉、食用油脂(牛脂、豚脂)、生クリーム、小麦粉、バター、デキストリン、砂糖、ポークエキス、香辛料、カレー粉、食塩、玉ねぎエキス、ビーフエキス、発酵乳、リンゴ発酵物、カラメル色素、調味料(アミノ酸等)、香料、乳化剤、酸味料、(原材料の一部に大豆、鶏肉を含む)

【評価】美味さ=A 甘さ辛さ=C 具入り=A 辛すぎる。

【参考】レトルトカレー味くらべ

【参考】レトルトカレー食塩相当量比較

美術散歩 管理人 とら 

ルーブル美術館展 @国立新美術館

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【ぶらぶら美術館・博物館 @六本木・東京ミッドタウン】
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【六本木テラス フィリップ・ミル】 今回は、東京ミッドタウンにあるフレンチ・レストランから、ぶらぶらスタート。
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これはフランスで今、最も注目を集める若手シェフ(↓)が国外に初出店した話題の店。
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今だけ食べられるルーヴル美術館にちなんだ美しいデザートを堪能。

ルーヴル・ピラミッド仕様の「ショコラガナッシュとフランボワーズのタルト仕立て」、「フランボワーズとバニラのアイスクリーム」、「カライブショコラ(↓カリブ諸島のチョコレート)」が揃っている。
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【ルーブル美術館展 古今の肖像芸術 @国立新美術館】 
 
そして一行は、国立新美術館で開催中の「ルーヴル美術館展」へ。

フランス・パリのルーヴル美術館全8部門を代表する「肖像」の傑作およそ110点が来日したユニークな展覧会である。

プロローグ 肖像の起源

《棺に由来するマスク》新王国時代 第16王朝 アメンヘテブ3世の治世 BC1391-BC1353 エジプト出土 (↓)
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《ボスコレアーレの至宝 エンブレマ型杯》35-40年頃 イタリア ボスコレアーレ出土(↓)
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フランスの英雄・ナポレオン1世のコーナーには若き日の肖像画から堂々たる彫像、さらにデスマスクまで、5点が一堂に集結。
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デスマスク vs 中年のナポレオン
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デスマスク vs 若いボナパルト
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アレクサンドロス大王の肖像
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紀元前340年頃、リュシンポスが全身のブロンズ像を制作。
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古代ローマ時代の摸刻
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クレオパトラ

クレオパトラ一世あるいは二世(↓)。
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プトレマイオス朝の王様は、全員がプトレマイオス名乗っている。
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プトレマイオス朝の女王の名前はクレオパトラ、アルシノエ、べレニケに限られている。有名なクレオパトラ女王は7世である。
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ジャック=ルイ・ダヴィッド《マラーの死》
 
フランス大革命の指導者・ジャン=ポール・マラーの暗殺像も出ている。この時マラーは入浴中で、彼の左手は読んでいた暗殺者からの手紙(↓)を持ち、右手は返事を書くための羽ペンを立てて握っている。
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マラーの暗殺者は、ジロンド派支持者シャルロット・コルデー(↓)。
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《マラーの死》の右手(↓右図)は、ミケランジェロの《ピエタ》に於いて聖母が抱えるでキリストの右手(↓左図)と似ている。
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 ヴェロネーゼ《美しきナーニ》

27年ぶりの来日を果たした、巨匠ヴェロネーゼの代表作《美しきナーニ》はこの展覧会の見どころ。さまざまな謎の残る美しき肖像画に想像が膨らむ。
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貴族の女性? 高級娼婦?
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この画で、ナーニが結婚指輪をしている所から、少なくとも「夫への忠誠心」が認められる。
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当時の時代背景や作家の思いなどを読み解くと、肖像は面白い、時空を超えた彼らとの出会いを通して肖像芸術の奥深い魅力に迫ることができる。

フランツ・クサファー・メッサーシュミット「性格表現の頭像」1771~83年
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美術散歩 管理人 とら 

【参考】
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プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画(短報) @東京都美術館

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アンリ・ルソー《馬を襲うジャガー》と美術散歩・管理人 とら↓。
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東京都美術館で開かれている「プーシキン美術館展」の会期は7月8日までであるが、本日7月6日に滑り込んできた。

ピエール・ボナール《夏、ダンス》↓
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小雨模様だったので、行きは鶯谷駅南口からタクシーで東京都美術館の通用口から入り、カフェの手前を抜けてエレベーターて地下に下り、展示会場に入った。

ちなみに、帰りは雨も上がっていたので、カフェの横から外に出て、JR上野駅まで歩いた。

プーシキン美術館の展覧会は以前(↓)にも見ていたので、出足が遅れたのであるが、会場に入ってその充実ぶりに驚いた。

プーシキン美術館展 フランス絵画300年 @横浜美術館(ブログ)

プーシキン美術館展 @東京都美術館(HP)

【註】モネ《草上の昼食》→こちら。 
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美術散歩 管理人 とら 

プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画(詳報) @東京都美術館

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本ブログの「短報」は ⇒ こちら。

第1章 近代画の源流

・クロード・ロラン《エウロペの掠奪》1655年 フェニキアの王女エウロペの美貌に心奪われたゼウスは、白くて美しい雄牛に姿を変えて、王女を誘惑。エウロペは雄牛を撫で、背に腰掛けると猛烈な勢いでクレタ島に連れていかれる。ロランは、この神話を海景画を描くために利用している。
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・クロード=ジョセフ・ヴェルネ《日の出》1746年 フランスの画家ヴェルネはイタリアに20年間滞在し、ロラン、デュゲ、ローザの影響を受けてた。本作品は、朝焼けも海と出航していく船を描いている。
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・クロード=ジョセフ・ヴェルネ《日没》1746年 これは《日の出》↑と対をなす作品で、夕暮れ時の海と帰港してくる船を描いている。
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第2章 自然への賛美

・ジュール・コワニエ / ジャック・レイモン・ブラスカサ《牛のいる風景》19世紀前半 二人はイタリアに長期滞在したフランス人画家。プラスカスは動物画家として名を成したが、風景画は苦手だった。風景描写はコワニエに任せて、作品の質を担保している。
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・ギュスターヴ・クールベ《水車小屋》1864年頃‐1870年半ば 共和主義を支持する画家クールベが自然の持つエネルギーに敬意を払って描いた作品。描かれているのはフランス東部の村オルナンを貫くルー川で、その上流域に水車小屋がある。
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・ギュスターヴ・クールベ《山の小屋》1874年頃 パリ・コンミューンの革命軍に与したクールベは、監獄抑留・財産差押えの危機に遭遇したため、スイスへの亡命を余儀なくされ、このような風景画を描いて暮らしていた。
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・アンリ=ジョセフ・アルピニー《女性のいる森の風景》1870年‐80年代  97年間に及ぶアルピニーの長い生涯は、バルビゾン派・レアリスム・印象派・ポスト印象派の画家たちが新たな風景表現を模索していく過程と重なっている。緑深い森の水辺に佇む女性の輪郭線をぼかし、細部を省略した風景描写はバルビゾン派、とりわけコローの影響が強い。
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・レオン=オーギュスタン・レルミット《刈り入れをする人》1892年以前 描かれた黄金に輝く麦畑で刈り入れ作業にいそしむ二人の女性は、産業化した都市部の人間にとっては懐かしい風景である。レルミットは、ミレーからの影響を受けた農民画家であるが、ゴッホにも影響を与えている。
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第3章 大都市パリの風景画

・ピエール=オーギュスト・ルノワール《庭にて、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの木陰》1874年 これは有名な《ムーラン・ド・ギャレットの舞踏会》の準備段階で描かれた作品である。青いストライプのドレスを着た女性は、両作品に描かれているが、ルノワールのお気に入りのモデル「二二」。その後ろから顔を覗かせる男性は「モネ」とのこと。この作品は、後述の《草上の昼食》の失敗に凝りて「戸外制作」後に、「アトリエでの手直し」が行わてたのである。
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・アルベール・マルケ《パリのサン・ミッシェル橋》1908年頃 フォーヴィスムの時期を経て抒情的なパリを描くようになったマルケは。かってマティスも暮らしたサン=ミッシェル河岸にアトリエを構え、アトリエの窓から橋を俯瞰的に描いた。靄がっかった曇天を描いた本作品は、色彩は抑制的だが、緑と赤がリズミカルに呼応している。
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第4章 パリ近郊‐身近な自然へのまなざし

・クロード・モネ《草上の昼食》1866年 当初の《草上の昼食》は、サロンに送るための大作でとして着手された意欲作であったが、完成することなく断片がオルセー美術館に残されている。プーシキン美術館の作品は、大作の実現が叶わなかっと時に、再び手を加えて完成させたとも考えられるが、その詳細についてはブログに書いたので、こちらを参照されたい。
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・クロード・モネ《白い睡蓮》1899年 モネは最晩年までに200点いじょうの睡蓮を描いているが、本作品はその初期にあたるもの。本作品亥は、緑を基調に、紫・ピンク・黄色などの色彩が効果的に配されている。1899年から1900年の間に、モネは睡蓮の池に太鼓橋が架かる風景を18点描いているが、子の《白い睡蓮》はその中の1点であり、《睡蓮の池、緑のハーモニー》1899年、オルセー美術館や、《睡蓮と日本の橋》1899年、プリンストン大学美術館と構図や色彩が似ている。
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・ポール・セザンヌ《ポントワーズの道》1875‐77年 ピサロの影響を受けてポントワーズで制作された風景画。曇り空の表現や濃い緑の使い方にピサロをはじめとする印象派の画家たちの影響が指摘されている。
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・パブロ・ピカソ《庭の家(小屋と木々)》1908年 各モチーフは幾何学的な形を意識しながら単純化されていて、塀は見下ろすように、家は見上げるような位置から複視眼的に見た風景として捉えられている。セザンヌの影響を受けた初期キュビスムの風景画である。
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第5章 海へ‐新たな光と風景

・ポール・セザンヌ《庭園の木々》1885-87年 描かれてのは、セザンヌ家の別荘庭園。丁寧に筆致が並べられた木々の葉は風にそよぐ揺れを感じさせ、軽やかな雲の動きもゆったりとした動きを感じさせる。しかし、同時に印象派を離れ、セザンヌ独自の堅牢な構成への志向も認められる。
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・ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山の平野、ヴァルクロからの眺め》1882‐85年 サント=ヴィクトワール山は、セザンヌが生涯30点以上の油彩画に残した重要なモチーフ。本作品はその中では初期のもの。
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・ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山、レ・ローヴからの眺め》1905—06年 前者から20年ほど経て制作された最晩年の作品の一つである。
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・ピエール・ボナール《夏、ダンス》1912年 テラスから、庭の情景、中景の森、遠景の山々まで捉えられている。黒いドレスの女性は、ボナールの妻・マルトで、近くには子供たちが遊び回っており、愛犬も描き込まれている。左の木の下に腰掛けているのは白いひげを蓄えた年配の男性。
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・アンドレ・ドラン《港に浮かぶヨット》1905年 帆を乾かすヨットの連なるコリウールの港が、自由で鮮やかな色彩とリズミカルな筆触で描かれた「野獣派」の作品である。
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第6章 海をわたって / 想像の世界

・ポール・ゴーガン《マタモエ、孔雀のいる風景》1892年 最初のタヒチ滞在時の作品。山や地面には不定形の鮮やかな色面が連なり、幻想的な熱帯の風景が生み出されている、パンダナスの葉で覆われた小屋、伸びたココナツの樹、半裸で斧を振るう男性(ゴーガン自身)、孔雀など異国的なモチーフが配されている。「マタモエ」とは「死」を意味している。
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・アンリ・ルソー《馬を襲うジャガー》1910年 舞台上の書割のように植物が重ねられ、中央に馬とジャガーのための空間が用意されている。細長い葉が生物の触手のような動きを感じさせるほどに生命を吹き込まれているのに対し、動物たちは決定的な一瞬で動きを止めている。熱帯の緑の中の赤・オレンジ・白の花は悪戦として配され、彩を添えている。
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【おまけ】プーシキン美術館展コラボメニュー @cafe Art
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美術散歩 管理人 とら 

よみがえった国宝・名古屋城本丸御殿 @日曜美術館

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これは、7月8日日曜 午前9時00分~ 9時45分 放送の「日曜美術館」のメモ。

【番宣】

今年6月復元工事が完成した名古屋城本丸御殿。復元工事の様子や障壁画の復元模写の作業を織り込み、400年前の姿がよみがえった本丸御殿の魅力をあますところなく紹介。

今から400年前の1615年に建てられた名古屋城本丸御殿。1930年に天守閣とともに国宝に指定されたが、1945年5月空襲により焼失。

名古屋市は、2009年から本丸御殿の復元工事に着手、9年余りをかけた工事が今年6月に完成、一般公開された。

番組では、加藤純子の指導の下行われている障壁画の復元模写の作業を織り込みながら、400年前の建造時の姿がよみがえった名古屋城本丸御殿の魅力をあますところなく紹介。

【出演】古典模写制作・加藤純子さん
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岡崎市美術博物館館長・榊原悟さん
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【司会】小野正嗣、高橋美鈴
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【参照ブログ】狩野派と名古屋城400年@名古屋城天守閣(2010/4/11 )⇒こちら

【名古屋城本丸御殿の見取図】
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【番組内画像】

名古屋城
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名古屋城本丸御殿
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徳川義直:徳川家康は甲信及び東海道の要としての重要なこの地域を管轄すべく、名古屋に天下普請の城郭として名古屋城を築いて根拠地とした。平岩親吉ら家臣団も尾張へ移り、義直の附家老として尾張犬山城主となり尾張支配を主導した。義直自身は家康死後の元和2年(1616年)に尾張へ入国した。
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玄関一之間(東側襖絵)《竹林豹虎図》狩野派 
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表書院上段の間
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帳台構
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上洛殿: 寛永11年(1634年)の三代将軍家光の上洛に合わせ、新たに増築した建物。 将軍の御座所として位置づけられたことから、御成書院とも呼ばれた。室内は狩野派の手による襖絵・天井板絵や絢爛豪華な「彫刻欄間」、「飾り金具」等で彩られ、本丸御殿の中でも最も豪華に飾られた建物。とりわけ、幕府御用絵師の狩野探幽によって描かれた《帝鑑図》や《雪中梅竹鳥図》などが有名。
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上洛殿
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狩野探幽《雪中梅竹鳥図》上洛殿三之間北側襖絵
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上洛殿三之間
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狩野探幽《雪中梅竹鳥図》
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狩野探幽《雪中梅竹鳥図》部分
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狩野探幽《雪中梅竹鳥図》部分
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上洛殿上段之間
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狩野探幽《帝鑑図》露台惜費 上洛殿上段之間 南側襖絵
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《帝鑑図》
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《帝鑑図》
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彫刻欄間の製作@井波
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彫刻欄間@上洛殿 
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彫刻欄間@上洛殿
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上洛殿
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飾金具の製作
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飾金具の模様
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天井
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天井
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天井の製作
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戦前撮影の写真①
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戦前撮影の写真②
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戦前撮影の写真③
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写真着彩による障壁画の復元模写
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写真着彩による復元模写《松楓禽鳥図》狩野派 @表書院二の間
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写真着彩による復元模写《雪中梅竹鳥図》狩野探幽 @上洛殿三之間
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「探幽」の写真着彩による復元模写における「永徳」との比較
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玄関一之間《竹林豹虎図》狩野派 復元模写 
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玄関一之間《竹林豹虎図》原画 vs 復元模写
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上洛殿三之間《雪中梅竹鳥図》復元模写
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上洛殿三之間《雪中梅竹鳥図》原画(鳥は、枝の下に「尾部」のみ残存) vs 復元模写(鳥の「体部」を、枝の上部に追加)
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美術散歩 管理人 とら 

ルーブル美術館展 肖像芸術-人は人をどう表現してきたか @国立新美術館

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これは現在国立新美術館で開催中の「ルーブル美術館展 肖像芸術-人は人をどう表現してきたか」のメモである。
ちなみに、ぶらぶら美術館・博物館の面々がこの「ルーブル美術館展」を鑑賞した時のブログ記事は「こちら」である。

プロローグ: マスク肖像の起源

・1. 棺に由来するマスク エジプト 新王国 第18王朝 紀元前1391-1353 木、黒石、白石、青ガラス: 新王国時代以前のエジプトでは、棺内の死者が死後の世界を永遠に生きるために、「理想化された顔」の画が棺に張り付けられた。この例では、眉と眼の周りは派手な青ガラス製である。
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・2. 女性の肖像 エジプト 2世紀後半 蠟画(シナノキ): この時代になると、死者は理想化した顔ではなく、生前のリアルな顔で来世を過ごすという考え方に変わっている。
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1.記憶のための肖像

1a 自身の像を神に捧げるー信心の証としての肖像

1b 古代の葬礼肖像―故人の在りし日の面影をとどめる

・14.女性の頭部 シリア・パルミラ 150-250年 石灰岩 多色彩色の跡: これは「葬礼肖像」の1例と思われる。会場には、女神ディアスとして表された若い娘や、ヘラクレスあるいはエロスとして表された子供の大理石像も出ていた。
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・19 ボスコレアーレの至宝 エンブレマ型杯 イタリア、カンパニア州ボスコアーレのピサネッラのヴィラで1895年に発見 35‐40年頃 銀: 「コレアーレ」はポンペイの北西に位置した街であるが、西暦79年に起こったヴェスヴィオス火山噴火で溶岩の下に沈んだ。古代ローマでは、自分の先祖を崇拝する習慣があり、先祖の姿を表現した肖像は、家の中に大切に飾られていた。この杯の中央の男性は銀を外から叩き出して作ったものであるが、対の杯として中央に女性像が作られているものがある。これらは、その夫婦あるいは父母の思い出あるいは先祖の崇拝の品として創られたのであろうが、火山の噴火によってはからずも「葬礼肖像」となってしまったのである。
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1c 近代の葬礼肖像―高貴さと英雄性

・23.ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748‐1825)と工房 マラーの死 1794年頃: フランス大革命時、ジャコバン党を応援していたダヴィッドが、暗殺されたジャコバン党の指導者・マラーの死を描いた作品。皮膚病の治療浴中のマラーが左手に握っているのは暗殺者ジロンド派支持者シャルロット・コルデーからの手紙。マラーの右手は、コルデーに返事を書くため羽ペンを垂直に握っているが、これはミケランジェロの《ピエタ》に於ける、聖母に抱かれたキリストの右手を暗示している。
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2.権力の顔

2a 男性の権力者―伝統の力

・26.クドゥッル(境界石):女神ナナヤの前のバビロニア王メリシバク2世と娘 イラン(古代のエラム)、スーサ出土 後期青銅器時代、カッシート王朝時代、メリシバク2世の治世(前1186‐前1172年)黒色石灰岩: クドゥッルの存在意義は、神々が保証するテキストにある。愛と戦の女神イシュタールを象徴する星、月神シンを象徴する三日月、正義の神シャマシュを象徴する太陽円盤、あるいはそれらの神々の属性を動物とこれらの象徴を組み合わせたものが見られる。関係する人物が石碑上に姿を見せることもあり、ここでは右腕を挙げて祈る「メリシバク2世」が娘の手を握り、香炉の前の玉座に腰掛けている「ナナヤ女神」のほうへ娘を導いている。境界石は、このようにして女王の保証下に父から娘に譲渡された土地の境界に建てられた。 
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・29.《アレクサンドロス大王(在位前336‐前323)の肖像》、通称《アザラのヘルメス柱》 イタリア、ティヴォリのピソンのヴィㇻで1779年に発見 イタリアで制作 2世紀前半(前340年‐前330年頃にリシュッポスにより制作されたブロンズの原作に基づく) 大理石(ぺテリコン産)
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・38.ジャック・サラザン(1592‐1660)5歳のフランス国王ルイ14世(1638‐1715)1643年: ルイ14歳は、わずか5歳でフランス国王になった。この像が、古代ローマの皇帝ふうに作られているため、5歳とは思えない大人っぽくて堂々としている。
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・43 アントワーヌ=ジャン・グロ(1771‐1835)アレコレ橋のボナパルト(1796年11月17日)1796年: グロはパリ生れで、新古典主義のダヴィッドのもとで学んだが、彼もダヴィッド同様波乱の一生を送ることとなった。 彼は皇妃ジョセフィーヌを通じて、ナポレオンの寵愛を受け、ナポレオンの武勲を伝える絵の数々を描いた。今回展示されている「アルコレ橋上のボナパルト」もその一つ。この作品は、ルーヴル美術館以外にエルミタージュ美術館にも収蔵されており、最終作はベルサイユ宮殿に収蔵されている。ナポレオンが失脚し、ダヴィッドがブリュッセルに亡命してからは、グロは男爵の称号を得て、その栄誉の代償として新古典主義を背負って立つという立場に立たざるを得なくなった。元来、グロ自身にはロマン主義的な資質が内包されており、両者の芸術的葛藤に悩み、 最後はセーヌ川での入水自殺に追いやられた。
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・44.アンヌ=ルイ‣ジロデ・ド・ルシー=トリオゾン(1767‐1824)の工房 戴冠式の正装のナポレオン1世の肖像 1812年以降: ナポレオン1世は、頭には古代ローマ皇帝のように「月桂冠」を就け、身体はフランス王室の象徴である「金色の蜜蜂文を垂らした白貂の毛皮」で覆っている。
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・45.クロード・ラメ(1754‐1838)戴冠式の正装のナポレオン1世 1813年 大理石: ナポレオン1世は、頭にローマの月桂冠、身体にフランス王室特有の「蜜蜂文(下部説明画中の矢印参照)」を垂らした「白貂の毛皮」。
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・46.ピエール-バラトン(1773年生、1817年まで活動)嗅ぎタバコ入れ パリ、1807年頃 褐色のべっ甲、金、エマイユ: ナポレオン1世と王妃ジョセフィーヌの肖像のある嗅ぎタバコ入れ。ポータブルな二連肖像画である。
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47.フランチェスコ・アントンマルキ(1780-1838)ナポレオン1世のデスマスク 1833 石膏

【ナポレオン1世のデスマスク物語】
1.ナポレオン セントヘレナ島で51歳で死去。
2.イギリス人医師バートン ナポレオンの死後2日目にデスマスク制作。
3.イタリア人医師アントンマルキ デスマスク持ち去る。
4.イタリア人医師アントンマルキ バートンの死後のデスマスクの販売予約。5.国王フィリップ1世 石膏製デスマスク25個、ブロンズ製デスマスク5個購入。 
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・48.ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル フランス王太子、オルレアン公フェルディナン=フィリップ・ド・ブルボン=オルレアン(1810-1842)の肖像 1842年: これは評判の良かったオルレアン公が、自らアングルに注文した作品。出来上がった際には、公はこの世を去っていた。
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幕合劇Ⅰ 持ち運ばれ、拡散する肖像‐古代の硬貨から17世紀インドのミニアチュールまで

・64.肖像画と絵画のアルバム(画帖)インド、デリー(?)1750-1760年頃 水彩、金、紙、絹(裏打ち)、革(装丁): ムガル朝インドの絵画は、手で持ち運べる大きさの写本に描かれた。肖像画(↓右)は、皇帝アフマド・シャー【在位1748‐1754)。(↓左)は、皇帝ムハンマド・シャー(在位179‐1748)。西洋の肖像作品とは雰囲気が違っていて面白い。
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2b 権威ある女性

・66.クレオパトラ2世、またはクレオパトラ3世の肖像 エジプトで制作 前2世紀後半 大理石: アレクサンダー大王の死後、後継者たちによって帝国は分割され、王朝が開始した。エジプトはギリシャ人の支配にもかかわらず、土着の伝統が残った特殊な世界だった。ラゴスの息子で、アレクサンダー大王の将軍だったプトレマイオスの名を取って付けられた「プトレマイオス朝」も土着の習慣を尊重しないわけにはいかなかった。こうした両義性によって、ファラオの継承者となったラゴスの息子一族では、男性・女性を問わず、その肖像が頻繁に制作された。このため各肖像の同定は容易ではなく、混乱したものとなっている。概して、構図はギリシャ様式、エジプト慣習の折衷となっているのである。クレオパトラ2世はプトレマイオス6世の妻であったが、後にプトレマイオス8世と再婚した。このプトレマイオス8世は、彼女の連れ子を后としたが、これがクレオパトラ3世である。陰謀と暗殺が日常的な政争のさなかで、この2人の女王は権力への渇望と意思を貫いた。そのことがこの肖像の容貌から見て取れる。
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・60.セーヴル王立磁器製作所 ルイ=シモン・ボワゾ(1743-1809)の原作に基づく フランス王妃マリー=アントワネット(1755-1793)の胸像 1782年 ビスキュイ(窯焼きの硬質磁器): 大革命後にギロチンに架けれれることが信じられないような美人。人間の外面は内面を表さずということなのだろう。
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2c 精神の権威

・72.ホメロスの架空の肖像 イタリア・ローマ、メルラーラ通りのヴィラ・カエターニの擁壁の中から1704年に発見。イタリア・ローマで制作。1世紀(前3世紀、または前2世紀前半までにギリシャで制作された原作に基づく 大理石(ベンチリコン産): 二大叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」の作者に帰されているギリシャ詩の父・ホメロスは、盲目の老人と考えられてきた。
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幕合劇Ⅱ 持ち運ばれ、拡散する肖像‐フランス国王ルイ16世のミニアチュールコレクション

3.コードとモード

3a 男性の権力者―伝統と刷新

3b 女性の権力者―伝統と刷新

・91.ヴェロネーゼ(本名バオロ・カリアーリ)(1528-1588)《女性の肖像》、通称《美しきナーニ》1560年頃: この作品がナーニ家にあったことは知られているが、この女性が何者なのかについてはまったく知られていない。ただ、左手の中指に金の指輪を嵌めていることと、右手を胸に当てていることなどは、男性に対するロイヤリティの現れだろうと思われる。私がこの作品を見たのは、1991年に国立西洋美術館で開かれた「ルーヴル美術館特別展ー肖像表現の展開」であり、この画像は展覧会図録の表紙となっていた。
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・93 レンブラント・メンデルスゾーン・ファン・レイン(1606‐1669) ヴィ―ナスとキューピッド 1657年頃: レンブラントは、聖書や神話を主題にした歴史画のほか、肖像画・自画像によって名声を博した。この作品は一見、愛の女神ヴィーナスとキューピッドを描いた神話画に見えるが、ヴィーナスは、内縁の妻として後半生のレンブラントを支えたヘンドリッキェをモデルとして描かれ、またキューピッドも、彼らの娘のコルネリアがモデルと考えられる。最初の妻サスキアを1642年に亡くしたレンブラントは、息子ティトゥスの乳母ヘールチェを愛人としたのちに、家政婦として雇ったヘンドリッキェと真の愛情を育み、彼女の肖像画を何点も手がけた。ヴィーナスの優しげな微笑みは、ヘンドリッキェの穏やかな人柄をしのばせる。 
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・95 エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン(1755-1842)エカチェリーナ・ヴァシリエヴナ・スカヴロンスキー伯爵夫人(1755-1829)の肖像 1796年: 1789年のフランス大革命によってフランスを離れざるを得なくなったヴィジェ・ル・ブランは、イタリア、オーストリア、ロシア、プロシア、イギリス、スイスと欧州諸国を転々とせざるを得なかったが、この度のお陰で、彼女は多くの顧客を獲得し、その名を国際的に高めることができた。作品のモデルは、美貌と優雅な雰囲気で名高かったスカヴロンスキー伯爵夫人(1761-1829)だが、女帝エカテリーナ2世の女官長、ポチョムキン皇太子の姪で恋人だった。1781年に、1793年、スカヴロンスキー伯爵と結婚し、病勝ちの夫が亡くなると、ペテルブルグの宮廷に戻り、イタリア人リッタと再婚した。
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3c 子供と家族

・106.フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・マルティネス(1746-1828)第2代メングラーナ男爵、ルイス・マリア・デ・シストゥエ・イ・マルティネス(1788-1842)の肖像 1791年: ルイス=マリア・デ・シストゥエの肖像は、モデルの衣装の深みのある青色のために《青い服の子供》とも呼ばれ、ゴヤによる子供の肖像画の最も美しい作例の一つとされている。銘によれば、モデルは当時2歳8ヵ月である。

モデルは第3代メングラーナ男爵であり、スペイン国王カルロス4世と王妃マリア・ルイサを名付け親に持ち、のちにスペイン独立戦争の英雄として知られるようになる。この絵はルイス=マリアの唯一現存する肖像画であり、1928年までシストゥエ家に受け継がれ、その後アメリカの実業家ジョン・D・ロックフェラーJr. のコレクションに、次いでイヴ・サン=ローランとピエール・ベルジェのコレクションに収蔵されるという華々しい来歴を持っている。

控えめで親密な雰囲気の構図は、この幼いモデルに強い存在感を与え、無地の背景に浮き立つシルエットを包む光輪がモデルの存在感をいっそう強めている。深い青色と幅の広い飾り帯のばら色との組み合わせによる、非常に洗練された色使いは、イヴ・サン=ローランが1983年にデザインしたドレスにインスピレーションを与えた。
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3d 自己に向き合う芸術家‐啓蒙の世紀の3つの例

・108.フランツ・クサファー・メッサ―シュミット(1736-1783)性格表現の頭像 1771-1783の間 鉛錫合金: モデルは作者本人。心の病(うつ病)に悩んでいたメッサーシュミットは、このような顰め面を作品にすることで、病に打ち勝とうとした。
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4.エピローグ: アルチンボルドー肖像の遊びと変容

・111.ジュセッペ・アルチンボルド(1526-1593) 春 1573年: アルチンボルドは。人の顔を動物や植物で表現する名人で、当時から人気があった。
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・112.ジュセッペ・アルチンボルド(1526-1593) 秋 1573年
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美術散歩 管理人 とら 

生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。@東京ステーションギャラリー

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以下は、2018年7月13日(金)に、東京ステーションギャラリーで開かれた「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」の内覧会のレポ。この展覧会の会期は、2018年 9月9日(日)まで。

2018年12月15日、いわさきちひろ(1918-1974)は生誕100年を迎える。にじむ色彩で描かれた子どもたち、花々、そして大きく空けられた余白。絵本、挿絵、カレンダーなど、さまざまなメディアを通じてその絵は生活の隅々にまで浸透し、没後40年を超えてなお膨らみ続ける人気は世界に広がっている。

一方、その作品に関しては、「子ども、花、平和」などのモティーフ、あるいは「かわいい、やさしい、やわらかい」といった印象が注目されやすい。

「いわさきちひろ、絵描きです」――のちの伴侶と出会った際に自己紹介したちひろの言葉をタイトルに掲げるこの展覧会は、「絵描き」としてのちひろの技術や作品の背景を振り返るもの。
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ちひろはどのような文化的座標に位置し、どのような技術を作品に凝らしたのか。新出の資料も交えた約200点の展示品を通じて作品の細部に迫り、童画家としてのちひろイメージの刷新を試みている。

第Ⅰ章 私の娘時代はずっと戦争のなかでした

*以下、各章のタイトルはちひろの言葉からの引用。

冒頭では、終戦までの揺籃期のちひろを追い、画家としての原点と感性の形成を探る。

1918年に生まれたちひろ(岩崎知弘)は、陸軍築城本部の勅任技師であった父・正勝と、女学校教師の母・文江、そして二人の妹とともに、恵まれた家庭環境で少女時代を過ごした。

幼い頃から絵を得意とし、絵雑誌「コドモノクニ」に憧れた少女は、第六高等女学校におけるモダンな教育、岡田三郎助に学んだデッサンと油画、小田周洋に学んだ書など、幅広い文化に触れていく。

この章では、少女期のちひろが出会った出来事や事物を立体的に再構成し、ちひろがいかなる時代に育ち、何に出会い、何を吸収したのかを通覧する。

・岩崎家両親の昭和天皇即位記念式典出席記念写真 1928年 ちひろ美術館蔵 左より、5歳のちひろ、父・正勝、妹・世史子。妹・準子、母・文江
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・《なでしことあざみ》 1940年代後半 ちひろ美術館蔵 1945年5月の空襲で自宅が焼失したため、ちひろの戦前期の作品はほぼ皆無だが、本作は当時ちひろが師事していた春陽会の中谷泰のアトリエにあったため被災を逃れた。珍しく[IWA」の署名がある。
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みどころ 貴重な戦前の資料、もりだくさん!

第Ⅱ章 働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたい

ちひろがかねてから抱いていた宮沢賢治への共鳴は、日本共産党入党という形で具体化する。

疎開先から上京したちひろは、新聞記者として活動する傍ら、丸木位里・丸木俊(赤松俊子)夫妻のアトリエを訪れて技法を学んだ。

そして、1947年に手掛けた紙芝居『お母さんの話』(1950年出版)を皮切りに、画家の道を選び、童画家として駆け出した。

第Ⅱ章では、ちひろが誇りとしていた家庭生活と作家活動の両立の様子などを追いながら、同時代の文化史における位置づけも探った。プロレタリア美術に連なる紙芝居や幻灯、まとまって見られる機会の少なかった油絵など、これまで掘り下げられていなかったちひろ像に迫った。

みどころ 紙芝居、幻灯、ポスター、油絵、多メディアのちひろ!

・《ヒゲタ醤油広告》 1950年代前半 ちひろ美術館蔵 描く内容に制限のある広告を積極的に手掛けることはなかったちひろだが、ヒゲタ醤油の広告の仕事は1952年から晩年まで20年余りも続いた。ちひろが描いたこの都市の市民像は大衆の目に留まり、訴求する図を描く修練となるとともに、この仕事が駆け出しの時期のちひろを経済的に支え、その名と絵を広める助けともなった。
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・《ハマヒルガオと少女》 1950年代中頃 ちひろ美術館蔵 夏の海の一場面。大きな花と肖像のとりあわせはアールヌーヴォー風。水彩に比べて重い印象のあるちひろの油彩の中では明るい飲酒の作品である。
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みどころ 自由闊達!ちひろの線の細部に迫る

第Ⅲ章 私は、豹変しながらいろいろとあくせくします

ちひろの原風景、そして時代や文化状況との呼応関係を追う本展の前半部を踏まえて、後半では作品の魅力に分析的に迫る。

いわさきちひろといえば子どもや花の絵、という多くの人々に抱かれている定型の印象をより細密にするべく、画面に凝らされた技術に焦点を当てる。

ちひろはどのように体を使っていたか。座って描いたか、立って描いたか。どんな道具や素材を、いかなるスピードで、いかに操作していたか。

本章では特にちひろの絵における「線」の現れ方に注目することで、図に囚われがちなちひろの作品の見え方が、他の作品と接続して広がっていくことにもつながっていく。

・《帽子の少女》 1970年 ちひろ美術館蔵 雑誌『こどものしあわせ』1970年8月号 草土文化 パステル・水彩
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・《絵をかく女の子》 1970年 ちひろ美術館蔵 パステル
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・《引越しのトラックを見つめる少女》『となりにきたこ』至光社 1970年 パステル ちひろ美術館蔵 

鉛筆・墨によるモノクロ習作とパステルによるカラー習作も出展されていた。
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第Ⅳ章 童画は、けしてただの文の説明であってはならない

最終章では、明るく輝く水彩画の数々によって、ちひろの開放的な色彩の魅力が示されている。

また、2017年に開催された「高畑勲がつくるちひろ展」の成果を踏まえ、《子犬と雨の日の子どもたち》と《落書きする子ども》2017年においては、原画の拡大によってちひろの作品の中に没入する空間を作り出し。絵本を読むときの距離感覚と展示空間の融合と、みずみずしい彩りが、本展のフィナーレを飾っていた。

さらに、映像番組「黒柳徹子さんと『いわさきちひろ』」のダイジェスト版も見ることができた。

みどころ 拡大原画の空間が来場者を包み込む!

・《小犬と雨の日の子どもたち》 1967年 水彩・クレヨン ちひろ美術館蔵
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・《海辺を走る少女と子犬》 1973年 『ぽちのきたうみ』至光社 水彩 ちひろ美術館蔵 1973年
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いわさきちひろ略年譜⇒https://chihiro.jp/biography/

1918 大正7年 0歳
12月15日、岩崎正勝・文江の長女として母の単身赴任先・福井県武生(現・越前市)で生まれる。本名知弘。父・正勝は陸軍築城本部の建築技師、母・文江は女学校の教師(博物家事・理科)。

1919 大正8年 0歳
現在の東京都渋谷区道玄坂に移る。

1920 大正9年 1歳
妹・世史子生まれる。

1922 大正11年 3歳
東京・渋谷の四反町(現・東)に移る。

1923 大正12年 4歳
妹・準子生まれる。

1925 大正14年 6歳
東京・渋谷の向山町(恵比寿・南)に転居。渋谷町立長谷戸小学校に入学。

1927 昭和2年 8歳
学芸会等で席画をよくする。岡本帰一、初山滋、武井武雄らの絵を好む。

1931 昭和6年 12歳
東京府立第六高等女学校(現・都立三田高校)に入学。

1933 昭和8年 14歳
目黒区目黒に移る。岡田三郎助に師事。デッサン、油絵の勉強を始める。

1936 昭和11年 17歳
3月、府立第六高等女学校卒業。同補習科に入学。5月、朱葉会女子洋画展に入選。

1937 昭和12年 18歳
3月、府立第六高等女学校補習科修了。コロンビア洋裁学院に入る。女性書家:小田周洋について藤原行成流の書を習い始める。

1939 昭和14年 20歳
4月、婿養子を迎え「結婚」。6月、夫の勤務地である旧満州大連(中国遼寧省大連市)に渡る。

1940 昭和15年 21歳
母・文江、府立第六高等女学校を退職し、「大日本連合女子青年団主事」となる。

1941 昭和16年 22歳
3月、夫の「自殺」のにより帰国。書家をめざし、再び小田周洋のもとで書を学ぶ。このころ、文化服装学院で習字を教える。中野区千代田町(現・本町付近)に移る。

1942 昭和17年 23歳
中谷泰に師事、再び油絵を描き始める。

1944 昭和19年25歳
4月、女子義勇隊に同行して、中谷泰、妹・世史子らとともに旧満州勃利(中国黒龍江省)へ渡る。夏、戦況悪化のため「帰国」。

1945 昭和20年 26歳
5月、東京・山の手の空襲で中野の家を焼かれ、母の実家(長野県松本市)に疎開、ここで終戦を迎える。秋、両親が長野県北安曇郡松川村で開拓を始める。

1946 昭和21年 27歳
長野県松本市で日本共産党に入党。春、上京し、人民新聞の記者となる。日本共産党宣伝部・芸術学校に入る。赤松俊子(丸木俊)に師事。このころ、日本美術会、日本童画会のメンバーとなる。

1947 昭和22年 28歳

4月、前衛美術会創立に参加。5月、初めての単行本『わるいキツネそのなはライネッケ』(霞ヶ関書房)の挿し絵を描く。日本民主主義文化連盟の依頼により、紙芝居『お母さんの話』を描く。このころ、画家として立つことを決意する。

1948 昭和23年 29歳
新聞等のカット、挿し絵、絵雑誌、教科書の仕事を数多く手がける。油絵もよく描く。神田・神保町のブリキ屋の二階に下宿。

1949 昭和24年 30歳
日本共産党の活動のなかで松本善明と知り合う。

1950 昭和25年 31歳
1月、松本善明と「結婚」。紙芝居『お母さんの話』を教育紙芝居研究会より出版、この作品で文部大臣賞受賞。

1951 昭和26年 32歳
4月、長男・猛「誕生」。6月、経済的事情のため、やむなく息子を長野県松川村の両親に預ける。この間、息子に会うため、頻繁に松川村に通い、多くのスケッチを描く。

1952 昭和27年 33歳
東京都練馬区下石神井に家を建て、家族3人で暮らし始める。以後22年間、この地で制作活動を行う。

1953 昭和28年 34歳
1月、父・正勝死去。

1956 昭和31年 37歳
絵雑誌等に発表した作品を対象に、小学館児童文化賞受賞。絵本の仕事として初めての『ひとりでできるよ』(福音館書店)を描く。

1958 昭和33年 39歳
至光社の月刊絵雑誌「こどものせかい」に描き始める。紙芝居『お月さまいくつ』(童心社)を描き、翌年、厚生大臣賞受賞。

1960 昭和35年 41歳
『あいうえおのほん』(童心社)を描き、翌年、サンケイ児童出版文化賞受賞。

1962 昭和37年 43歳
最後の油絵作品「こども」を描く。教科書の絵の再使用に対して、太田大八、久保雅勇らとともに抗議、以後解決に至るまでねばり強く戦う。

1963 昭和38年 44歳
雑誌「子どものしあわせ」(草土文化)の表紙を描き始める。3月、「ぐるうぷ堊(かべ)」を、赤羽末吉、遠藤てるよ、柿本幸造、中尾彰、渡辺三郎、丸木俊らと結成。6月、世界婦人会議参加のため、ソビエトを訪れる。

1964 昭和39年 45歳
「童画ぐるーぷ車」を、安泰、遠藤てるよ、久米宏一、滝平二郎、東本つね、箕田源二郎らと結成。10月、日本児童出版美術家連盟(童美連)発足。理事として画家の著作権擁護に積極的に取り組む。

1965 昭和40年 46歳
『りゅうのめのなみだ』(偕成社)『おはなしアンデアルセン』(童心社)を刊行。

1966 昭和41年 47歳
母・文江をともなってヨーロッパ旅行。帰国後、アンデルセンの『絵のない絵本』(童心社)を描く。長野県の黒姫高原に山荘を建て、以後毎年ここで絵本制作を行う。『おやゆびひめ』(ひかりのくに昭和出版)『つるのおんがえし』(偕成社)を刊行。

1967 昭和42年 48歳
『わたしがちいさかったときに』(童心社)を描く。夫・善明が衆議院議員となる。『しらゆきひめ』(集英社)『りこうなおきさき』(講談社)『にんぎょひめ』『うらしまたろう』(ともに偕成社)を刊行。

1968 昭和43年 49歳
絵で展開する絵本を試みた最初の作品『あめのひのおるすばん』(至光社)を描く。以後、至光社の武市八十雄とともに意欲的に絵本を制作する。自伝的絵本『わたしのえほん』(みどり書房・現在は新日本出版社)を描く。 『はくちょうのみずうみ』(世界出版社)『あかいふうせん』『あかいくつ』(ともに偕成社)『愛かぎりなく‐デカブリストの妻抄』(童心社)を刊行。

1969 昭和44年 50歳
『おにたのぼうし』(ポプラ社)『あかちゃんのくるひ』(至光社)『花の童話集』(童心社)などを描く。『ふたりのぶとうかい』(学習研究社)『あおいとり』(世界文化社)『鯉のいる村』(新日本出版社)を刊行。

1970 昭和45年 51歳
パステルで『となりにきたこ』(至光社)を描く。現存するパステル画のほとんどは、この年に描く。『あかちゃんのくるひ』(至光社)『おふろでちゃぷちゃぷ』『もしもしおでんわ』『万葉のうた』(ともに童心社)『にじのみずうみ』(偕成社)を刊行。「ベトナムの子供を支援する会」主催の反戦野外展に出品。前年脳血栓で倒れた母・文江を、下石神井の自宅にひきとる。

1971 昭和46年 52歳
『ことりのくるひ』(至光社)を描き、1973年ボローニャ国際児童図書展にてグラフィック賞を受賞。この頃から十二指腸潰瘍をわずらう。『あかちゃんのうた』『たけくらべ』(ともに童心社)『ゆきごんのおくりもの』(新日本出版社)を刊行。

1972 昭和47年 53歳
『ひさの星』(岩崎書店)『ゆきのひのたんじょうび』(至光社)などを描く。夏、代々木病院に入院。

1973 昭和48年54歳
3月、静養のためハワイ旅行。帰国後、『ぽちのきたうみ』(至光社)、 『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店。翌年ちひろの没後、ライプチヒ国際書籍展銅賞受賞)を描く。雑誌「子どものしあわせ」(草土文化)の表紙絵をまとめた『こどものしあわせ画集』(岩崎書店)出版。秋、ガンのため代々木病院に入院。小康を得て退院。

1974 昭和49年 55歳
3月、病状が悪化し、再入院。6月、あかちゃんの絵を描き絶筆となる。8月8日、肝臓ガンのため「死去」。

1975 昭和50年
未完のまま遺作となった『赤い蝋燭と人魚』(童心社)を刊行。

美術散歩 管理人 とら 

安美錦成績 @大相撲平成30年名古屋場所

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安美錦現在地位:十両4枚目
関取在位場所 1位:117 魁皇、2位:111 安美錦・旭天鵬   

初日 2018708 ◎安美錦 下手投げ 大翔鵬X 1勝
2日目 2018709 X安美錦 おしだし 英乃海◎ 1勝Ⅰ敗
3日目 2018710 ◎安美錦 はたきこみ 貴源治X 2勝1敗
4日目 2018711 ◎安美錦 はたきこみ 青狼X 3勝1敗
5日目 2018712 ◎安美錦 下手投げ  大奄美X 4勝1敗
6日目 2018713 X安美錦 おしだし 安美錦X 4勝2敗
7日目 2018714 ◎安美錦 寄り切り 明瀬山X 5勝2敗
8日目 2018715
9日目 2018716
10日目 2018718
11日目 2018719
12日目 2018720
13日目 2018721
14日目 2018722
千秋楽 2018723

美術散歩 管理人 とら
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安美錦 勝ち越し @平成30年大阪場所 千秋楽
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安美錦 再度の再入幕 @平成30年度夏場所番付発表
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がんばれ「安美錦」
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ミケランジェロ “人間”のすべてを彫る @日曜美術館

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これは今朝の日曜美術館「ミケランジェロ “人間”のすべてを彫る」のメモ。
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《ロンダニーニのピエタ》1559年、ミラノ・スフォルツァ城博物館蔵↑
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《ベルヴェデーレのアポロ》ピオ・クレメンティーノ博物館蔵↑ 
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《若き洗礼者ヨハネ》1495〜96、ウベダ、エル・サルバドル聖堂 / ハエン、メディナセリ公爵家財団法人蔵↑ 
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《若き洗礼者ヨハネ》↑

1.はじめに

彫刻家にして、絵画や建築でも偉業を成し遂げたルネサンスの巨匠・ミケランジェロ。その芸術の真髄ともいえる彫刻に焦点を当て、ミケランジェロが追い求めたものを探る。
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《ダヴィデ像》摸作はフィレンツェ・シニョリーナ広場↑、オリジナルはフィレンツェ・アカデミア美術館蔵
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《目覚める囚われ人》1520‐23年 アカデミア美術館蔵↑

2.青年期のミケランジェロ

青年期のミケランジェロは、古代彫刻を手本としながら、解剖で得た知識を生かして、筋肉や血管をリアルに表現し、生き生きとした人間の姿を彫った。

その後、身体にらせん状のねじれを加えることで、苦悩や恍惚など、人間の複雑な感情を表現するようになる。
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《ラオコーン像》↑が発掘された時、ミケランジェロは大きな衝撃を受け、この像の研究を行ったという(参照)。

2.教皇ユリウス2世の恣意的計画変更

自分の墓廟制作からサンピエトロの天井画制作へ。
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ミケランジェロ《教皇ユリウス2世の墓廟設計図》部分↓。
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《抵抗する奴隷》1513—15年 ルーヴル美術館蔵 ↓
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《瀕死の奴隷》1513—15年 ルーヴル美術館蔵 ↓
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4.フィレンツェ共和国軍側のミケランジェロ 

フィレンツェ共和国支持者だったミケランジェロは、スペイン軍との戦いのため、フィレンツェの城壁要塞強化の仕事に専念した。

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ミケランジェロ《要塞の計画案》↑

スペイン軍によるフィレンツェ共和国への侵略の際、1530年6月から8月までの3ヶ月間、命の危険を感じたミケランジェロは、地下に隠れて人体デッサンを描いていたので、彼の消息はまったく知れなかった。
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ミケランジェロ《秘密の地下室で描いた人体スケッチ》部分↑(参照)
 
5.晩年のミケランジェロ
 
《ダヴィデ=アポロ》1530年頃、フィレンツェ、バルジェッロ国立美術館蔵↓
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《ダヴィデ=アポロ》↓ 
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《フィレンツエのピエタ》↓ 1547年頃、フィレンツェ・ドウオーモ博物館蔵
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主よ この身を脅かし続けた 重荷を解かれて この世のわずらわしいことから離れて 私は疲れ果て あなたのもとに向かう
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嵐を抜けて 穏やかな大海原に出る 小舟のように
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《ロンダニーニのピエタ》↓
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長きにわたる探求と試みの果てに、死近くして良き芸術家は石の中に、生きた像を像を見出すことができる
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高く新しい作品に応ずるのは 人生も 残り少なくなってからなのだ
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そして晩年には、逃れようのない死にどう向き合うかを模索し、新たな境地に到達した。歳とともに変わったミケランジェロの彫刻。そこに込められた思いについて番組で十分に解説された。

【出演】彫刻家 舟越桂
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【司会】小野正嗣 高橋美鈴


【関連展覧会】「ミケランジェロと理想の身体」国立西洋美術館 2018 6.19‐9.24 
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美術散歩 管理人 とら

自家製カレー 2018/0717

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【内容】にんじん、たまねぎ、じゃがいも、牛肉、カレールー

【塩分相当量】未測定

【評価】美味さ=A 甘さ辛さ=A 具入り=A

【参考】レトルトカレー味くらべ

【参考】レトルトカレー食塩相当量比較

美術散歩 管理人 とら 

ぶらぶら美術館博物館#276 @上野の森美術館

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これは2018年7月17日の「ぶらぶら美術館博物館 #276」のメモ。

1.はじめに

解説者: 東京藝術大学大学美術館 准教授 熊澤 弘さん
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椅子に座っているエッシャーの自画像
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エッシャー: マウリッツ・コルネリアス・エッシャー1898年 オランダ生まれ1919年 建築装飾美術学校へ入学
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マウリッツ・コルネリアス・エッシャーの 父・へオルフ・アルノルフ・エッシャーは河川工学の技師で、明治政府のお雇い外国人として、1873‐78年の5年間日本に滞在していた 
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エッシャーの興味: 建築⇒版画 
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エッシャーは、版画の全工程を自分で手掛けていた。
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エッシャーは、芸術家というより職人(アルティザン)
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2.風景画

「風景画」はエッシャーの重要なルーツ    

エッシャー若き日の風景画:スケッチ⇒リトグラフ《アマルフィ海岸》
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風景画《アマルフィ海岸》
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「風景画」から「だまし絵」への発展がよく分かる作品①
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「風景画」から「だまし絵」への発展がよく分かる作品②
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《アマルフィー海岸》など階段や高低差のある建物を描いた風景画は、エッシャーの重要なルーツだった
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3.だまし絵

だまし絵の代表作: 版画《滝》と「ペンロースの三角形」 
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だまし絵の秘密: 版画《物見の塔》と「ネッカーの立方体」
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エッシャーは「風景画」を発展させて「だまし絵」にした
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4.エッシャーの生活

エッシャーが人気作家になったのは40歳頃で、それまでは両親の援助で生活していた。
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エッシャー28歳の時、長男が誕生した。
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エッシャーは、年賀状(グリーティングカード)を制作している
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第二次大戦から2年後の年賀状(グリーティングカード)
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5.エッシャーの 正則分割

あるものに出会ってエッシャーの版画家人生が一変した
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エッシャーはアルハンブラ宮殿で遭遇した幾何学的なタイル模様に衝撃を受けたのである
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《発展Ⅱ》
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《螺旋状》
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エッシャー《出会い》
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平面の正則分割
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エッシャーの「正則分割」は、科学雑誌の「数学の世界(図形編)」でも取り上げられた
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エッシャーは、「正則分割」の難しさにあえて挑戦した
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エッシャーは「正則分割」を突き詰めてゆく
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《昼と夜》
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《昼と夜》に使われた技法は、「正則分割」+「ルビンの城」+「モーフィング」
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1950年、《昼と夜》はベルギーの展覧会で多くの記者の目に留まる
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《昼と夜》はタイム、ライフなどに掲載され、エッシャーの名は一躍有名になった。
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《昼と夜》は600部増刷
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初来日
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6.《メタモルフォーゼⅡ》
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《メタモルフォーゼ》の長さは、約4m
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《変身(メタモルフォーゼ)》
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7.婚姻の絆と人への興味
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雑誌「週刊少年マガジン」に登場した「婚姻の絆」
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妻のイ江ッタとエッシャーの「結婚の絆」
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H.Q.ウェルズ作「透明人間」偕成社文庫
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エッシャーは、人に興味がなかった
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人より螺旋の構造や仮装世界に関心が髙かった
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8. 鏡に映った世界
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9.虚構の動物
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10.ネッカーの立方体
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11.ペンローズの三角形
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13.相対性 異なる三つの面内で行動する人物たちの合成
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水平面と矢状面
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垂直面
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【ぶらぶら美術館博物館 #276 】

上野の森美術館「ミラクル エッシャー展」~“視覚の魔術師”が仕掛ける「だまし絵」の幻想世界!~

エッシャーの幻想世界、その誕生の秘密

6月12日に1歳の誕生日を迎えた上野動物園のパンダの「シャンシャン」。今回はそのシャンシャンを毎日撮り続けているという写真家の叶悠眞さんが登場。シャンシャンの可愛い写真の数々に一同悶絶!毎日訪れている叶さんだからこそ知っている「シャンシャン観覧の裏ワザ」も伝授してくれる。

そして上野の森美術館で開催中の「ミラクルエッシャー展」へ!20世紀を代表する奇想の版画家、エッシャー。“視覚の魔術師”とも呼ばれる彼は、独特の構図と唯一無二の技法を使った「だまし絵」でよく知られている。

今回はイスラエル博物館のコレクションから選りすぐりの約150点が日本初上陸!

水が水路を上っていくように見える作品「滝」や、どっちが上でどっちが下!?現実には存在しない世界を描いた「相対性」など、“これぞエッシャー!”という代表作が続々。

そして、全長およそ4m!日本初公開となる超大作「メタモルフォーゼⅡ」も登場。エッシャーが、なぜ「だまし絵」にたどりついたのか、作品を追って変遷を見ていく。

さらに、エッシャーのだまし絵の中に入れちゃう!?体験型映像コンテンツに、一同大興奮!エッシャーが仕掛ける、変幻自在の幻想世界にたっぷりと酔いしれる!そんな、ぶらぶらです。
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暑中お見舞い申し上げます 2018/7/21

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シャインマスカット 岡山県津山 種なし
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交配: 

安芸21号(スチューベンxマスカット・オブ・アレキサンドリア)
       X 
白南(カッタークルーガンx甲斐路)

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美術散歩 管理人 とら 

縄文”美”の発見 @日曜美術館

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これは7月22日に放映された日曜美術館「縄文”美”の発見」のメモである。
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【番組のまとめ】この夏、東京国立博物館の特別展「縄文―1万年の美の鼓動」平成館 特別展示室 2018年7月3日(火) ~ 9月2日(日) に、縄文時代の国宝6件のすべてが集結する。もともと土器や土偶などの出土品は、当時の文化や生活を知る研究資料として見られその美術的価値は見過ごされてきたが、芸術家・岡本太郎は「日本人の祖先の美意識だ」と激賞し、バブル時代の開発に伴う発掘調査で次々と貴重な出土品が発見され、ついに1995年に「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶が初めて国宝に認定された。この番組では、その過程を追いながら縄文の美を味わう。

【ゲスト】建築史家・建築家 藤森照信、東京国立博物館 主任研究員・品川欣也

【司会】小野正嗣、高橋美鈴

1.岡本太郎の縄文文化論
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岡本太郎は「日本の伝統」光文社、1956年の中で、「縄文土器の圧倒的な凄みは、日本人の祖先が誇った美意識だ」と述べている。

岡本太郎の「縄文土器の荒々しい、不協和な形態、文様に心なしに触れると、だれでもドキッとする」と「四次元との対話‐縄文土器論」みずえ558号(1952年2月)という文章が「縄文の”美”の発見」について述べた最初のものである。

岡本太郎「縄文文化論」雑誌「みずえ」1952年2月号掲載
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縄文ポシェット(↓)
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岡本太郎が知ることのなかった青森の三内丸山遺跡からは、(↑)の木製編籠「縄文ポシェット」縄文時代中期・前3000~前2000年 青森県教育委員会蔵が出土していて、縄文文化のイメージは大幅に改められたが、ギリシャ・ローマの出土美術品などを扱う「美術考古学」の伝統がないわが国では、縄文土器のように従来は考古学の対象だったものを美術史に組み込む試みは遅れている。

大森貝塚の発掘現場 1985年(↓)
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明治10年(1877)、E.S.モースは、大森貝塚の調査報告書の中で、Cord marked Poteryという用語を初めて用い、これが縄文(縄紋)土器と訳された。
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(↑)は本日のゲスト。左が東博・考古室長の品川欣也氏、右が建築史家・建築家の藤森照信氏である。 

2.縄目文様が付けられた関山式土器

次は、「関山式土器」。これには定型的な「縄目文様」が付いている。
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イラク出土の「壺」や「無文鉢」には、このような「縄目文様」はない。
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エジプト出土の「刻文入壺」に見られる文様は「関山式土器」の縄目文様に比べれば単純なものである。
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3.土偶

国宝「中空土偶」縄文時代後期 函館市出土 
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土偶の目的としては、①狩りの成功、②安産、③死者の再生復活などが考えられる。
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いずれにしても、土偶は「祈りの道具」だったのである。
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国宝「縄文の女神」縄文時代中期 山形県舟形町出土
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国宝「合掌土偶」縄文時代後期 青森県八戸市出土
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4.国宝指定

今までに指定された6件の国宝は、①縄文のビーナス(1995年)、②火焔型土器(1999年)、③中空土偶(2007年)、④合掌土偶(2009年)、⑤縄文のビーナス(2012年)、⑥仮面の女神(2014年)である。
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茅野市の「棚畑遺跡」の発掘調査を行ったのは、茅野市教育委員会(当時)の守矢昌文氏だった。
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棚畑遺跡
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ここで出土した「縄文のビーナス」の発掘時の写真(1986年)が残っている(↓)。
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これは縄文時代後期の土偶「縄文のビーナス」であるが、1995年になってやっと国宝に指定された。
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国宝とは「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」と定義されている。
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「縄文のビーナス」のような縄文文化の重要遺産が、なかなか国宝指定を受けにくいというわが国の状況を見て、守矢昌文氏はこれを「諏訪中央病院」に持ち込み、X線撮影やCT検査を受けさせることを思いついた。

縄文のビーナスのX線撮影写真(↓)
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縄文のビーナスのX線撮影写真前後像(↓)
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縄文のビーナスのCT像(↓)
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縄文のビーナスのCT像(↓、〇印=空気):このように内部に空気が残っていると、温度が上昇した際に空気が膨張して土偶が破損してしまうことが多いのであるが、この土偶は地中で見事に保存されていた。このことはこの土偶の素晴らしい出来栄えの何よりの証明である。
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棚畑遺跡調査報告書
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元文化庁職員土肥孝さん
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なんで美的に見るんだと。そんなことはあり得ない話だと。研究資料だから。
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ベルギーのユーロパリア・ジャパン美術部門 多用な造形感覚に熱気(朝日新聞1989年11月14日)より。
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アメリカでの展覧会の図録(1970年)
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ピカソが何人いるんだ。皆同じものじゃない。違っているって言っている。
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それが大事だった。日本の研究者たちはまだそれを思っていなかった。
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縄文のビーナスに吉報。文化財保護審「国宝指定を答申」。毎日新聞長野版1995年4月15日より。
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5.縄文時代における交易中心地:棚橋遺跡

棚橋遺跡は、当時交易の中心地だった
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「矢じり」は、棚橋遺跡の近くの動物の骨で作ることができた。
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「黒曜石」も、棚橋遺跡の近くで採れた。
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 「翡翠」は地元ではとれず、棚橋遺跡で出土した「翡翠」は「新潟産」のものであった。
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棚橋遺跡で出土した「琥珀」は「千葉県銚子産」のものだった。
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また「瀬戸内海周辺で作られた土器」も棚橋遺跡で出土している。
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縄文時代の棚橋遺跡 ①全体像
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縄文時代の棚橋遺跡② 北の集落と南の集落 

南の集落で出土した「縄文のビーナス」は、以前に「北の集落」で作られたものだが、南の集落でも大切に使われていた。
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美術散歩 管理人 とら 

市販トマトジュースの比較検討

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トマトジュースはMy fovourite drink だが、品種によってかなり味が異なる。

ネットを検索していたら、次のサイトに遭遇したので、まずはそれを引用させていただく。

トマトジュースの比較⇒リンク先

ラインアップ=9種
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・1. セブンプレミアム リコピンたっぷりトマトジュース
紺崎:購入時価格は170円。コップに注いだ時からとろみを感じます。もったりした口あたり
サエコ:甘みよりもトマトらしいさわやかな風味が強め。飲みごたえがあるね

・2. 伊藤園 おいしいトマトジュース
紺崎:それに対して「伊藤園 おいしいトマトジュース」(163円)はさっぱり系
サエコ:確かにみずみずしい。ドロッとしたジュースが苦手な人にはこっちがおすすめ

・3. トップバリュ 14個分の完熟トマトを使用した トマトジュース 食塩不使用
紺崎:トップバリュのトマトジュース(158円)もすっきりしてます。良くも悪くもクセがないかな
サエコ:サラッとしてるから水みたいにたっぷり飲めそう

・4. デルモンテ 食塩無添加トマトジュース
紺崎:「デルモンテ 食塩無添加トマトジュース」(188円)はザラリとした舌触りが残ります。口あたりは最も“トマト感”がある気がしました
サエコ:デルモンテ=ケチャップのイメージだから濃い味を想像してたけど意外とすっきり。冷やすとジュレっぽくなってより美味

・5. 伊藤園 理想のトマト
紺崎:次は私が愛する「伊藤園 理想のトマト」(253円)。価格は他よりちょっと高いけど、甘くておいしいんですよ
サエコ:トマト特有の青臭さがないから余計に甘みをしっかり感じる。食後にデザート感覚でも飲めそう

・6. デルモンテ リコピンリッチ トマト飲料
紺崎:「デルモンテ リコピンリッチ トマト飲料」(278円)は今回の最高価格。自分で“リッチ”を名乗ってます
サエコ:私はこれが1番好みだわ。完熟トマトの旨みをギュッと凝縮させたみたいでおいしい!紺崎:味が濃いのに臭みがないのも◎。料理に使ってもいいですね

・7. デルモンテ 食塩無添加トマトジュース桃太郎ブレンド
サエコ:同じデルモンテでも「桃太郎ブレンド」(203円)は“野菜感”が強い。生のトマトが好きな人は気に入ると思う
紺崎:独特のさわやかな風味が鼻に抜けていきます。後味がめっちゃトマト

・8. カゴメトマトジュース食塩無添加
サエコ:最も酸味を感じるのは「カゴメトマトジュース食塩無添加」(188円)。フレッシュさがピカイチ
紺崎:甘みもほどよくあって味のバランスが絶妙です

・9. カゴメトマトジュース低塩
サエコ:「カゴメトマトジュース低塩」(88円)の方は想像以上に塩味が強め。塩が入ってないのばっかり飲んでたから余計にしょっぱく感じるんだろうな
紺崎:ジュースというよりトマトソースっぽい。満足感あります

【追記】それぞれに個性あり

サエコ:飲み比べてみると商品によってけっこう違うもんだね。どれが好みだった?紺崎:初めて飲んだ「リコピンリッチ」が心に残りました。あと「理想のトマト」は安定サエコ:この2つは甘みや旨みが強いから、トマトの臭みがあんまり好きじゃない人でも挑戦しやすいかもね

紺崎:逆にトマトらしい青っぽさを求めるなら「桃太郎ブレンド」かな。がっつりトマトを感じたい時にぜひ

サエコ:「カゴメトマトジュース」と「デルモンテ 食塩無添加トマトジュース」は、飲みごたえはあるけど重すぎない優等生って感じ。

紺崎:いろんなスーパーで見かけますし、手に入りやすいのもポイント高いですサエコ:それぞれ好みは分かれるだろうけど、気になったものがあれば飲んでみてほしいね!

紺崎:みなさんのトマトジュース選びの参考になれば幸いです

【今後の必要調査項目】
 その1.トマトの産地(「国産」あるいは「外国産」)
【参照文献】⇒こちらとこちら(↓)

#1.カゴメ トマト100% 濃縮トマト還元
【原材料の産地と表示】は
• トマト(ストレート):日本
• トマト(濃縮還元):アメリカ、チリ、トルコ、オーストラリア、ポルトガル、日本
• トマト(濃縮還元)国産表記あり:日本

つまり、この商品は「複数外国産トマト&一部日本」を時期に応じてミックスしている。

#2.デルモンテ(キッコーマン) リコピンリッチ(濃厚リコピン1.5倍&食塩無添加)トマトジュース

製造会社と販売会社は下記のように異なっている。
• 製造:日本デルモンテ株式会社
• 販売:キッコーマン飲料株式会社

両者のウェブサイトで産地を確認すると、「国内契約農家で育てたストレートトマトならびに世界中で調達したトマトをブレンド」となっている。

品質管理ページでは、次のようになっている。
1.日本デルモンテで使用するトマトは、国産トマトだけでなく、アメリカや中国、ヨーロッパなど海外産トマトも調達している。
2.国産トマトは契約栽培で品質管理を徹底している。
3.海外産はメーカーを訪問し産地状況確認、残留農薬等を品質検査し合格したもののみを輸入している。

#3.伊藤園の「理想のトマト」砂糖・食塩無添加トマト100%

この商品だけペットボトルラベル(画像下側)に、トマトの原産地(ポルトガル・アメリカ)が表示されていた。さらに品質管理のQRコードまで貼られていた。

以上から得られた結論は、以下の5点である。

• 濃縮還元は外国産の確率が高い(すなわち濃縮して輸入、国内で還元して製造)
• 産地無表示は間違いなく外国産(国産ならラベルにPRするはず)
• スーパーマーケットにおいてリーズナブルな価格帯(100円~200円前後)で100%国産トマトのジュースは売られていない。
• 日本産はコスト的に2~3倍あるいはそれ以上に値段が高くなると思われる。

その2.トマトジュースの性状(「酸度」および「糖酸比」)
【参照文献】⇒こちらあるいは(↓)

トマト含有飲料の必要条件は、糖度:7.0~13.0、糖酸比:19.0~30.0。

美術散歩 管理人 とら  

梅ぼし

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【梅屋の やさしく低塩 梅ぼし】
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はちみつ風味 塩分80%カット。国内で加工。

名称:調味梅干

原材料名:梅、漬け原材料〔果糖ブドウ糖液糖、りんご酢、食塩、蜂蜜〕酸味料、ビタミンB1、甘味料(スクラロース)、香料

原料原産地名:中国(梅)

内容量:120g

1粒可食部100gの栄養成分:エネルギー 109kcal、たんぱく質0.6g、脂質2.1g、炭水化物21.9g、食塩相当量3.0g

保存方法:直射日光、高温多湿を避けて保存

製造者:株式会社 梅屋

和歌山県田辺市文里1丁目12-14


美術散歩 管理人 とら 

フェルメール全作品

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フェルメール全作品

A.1650年代の作品

A-1《聖プラクセディス》
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•制作年代:1655年
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:101.6×82.6cm
•所蔵:個人蔵(日本・国立西洋美術館に寄託)
•来歴: バーバラ・ピアセッカ・ジョンソン・コレクションの所蔵品としてモナコで展示されていたが、2014年にクリスティーズで競売され、新たな所蔵者によって日本の国立西洋美術館に寄託された。

フェルメールの真作であるかどうかについては意見が分かれる。真作とすればもっとも初期の作。聖プラクセディスは2世紀頃の人物で、処刑されたキリスト教信者の遺体を清めることに努めたという。彼女は殉教者(絵の背景に見える)の血を含ませたスポンジを絞っている。

本作品は、フェリーチェ・フィケレッリ(1605年 - 1669年?)というイタリアの画家が10年ほど前に描いた『聖プラクセディス』の写しと思われ、構図はフィケレッリの作品とほとんど同じであるが、聖プラクセディスがその手にスポンジとともにフィケレッリの原作にはない十字架を握っている点が異なっている。

本作品は、1969年にメトロポリタン美術館で開催された「アメリカのコレクションにあるフィレンツェ・バロック美術」という展覧会に上記フィケレッリの作品として出品されたものであったが、画面左下に「Meer 1655」と読める署名が発見され、画面右下にもこれとは別の署名が発見されるに至り、フェルメール作品とみなす研究者が現れた。フェルメール研究の権威の1人であるアーサー・ウィーロックが1988年、自分の著書に収録して以降、本作品がフェルメールの作品として紹介されることが多くなったが、疑問をもつ研究者もいる。

A-2《マリアとマルタの家のキリスト》
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•制作年代:1654年 - 1655年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:158.5×141.5cm
•所蔵:スコットランド国立美術館(スコットランド、エディンバラ)
•来歴:スコットランドの実業家ウィリアム・アラン・コーツが1901年に購入。彼の死後、スコットランド国立絵画館に遺贈。

現存するフェルメール作品のうち、サイズの点では最大のもの。画題は『ルカによる福音書』10章のエピソードに基づく。キリストはマルタとマリアという姉妹の家に招待された。マルタはキリストをもてなすため忙しく働いている。一方で、マリアは座り込んだままキリストの言葉に耳を傾け、働こうとしない。マリアをなじるマルタに対してキリストはこう言った「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに心を配り、思いわずらっている。しかし、大切なことは1つしかない。そしてマリアは良い方の選択をしたのだ」。マリアの頬に手を当てるポーズは図像学的にはメランコリーを意味し、マリアが裸足であるのはキリストへの謙譲を意味する。

A-3《ディアナとニンフたち》
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•制作年代:1655年 - 1656年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:97.8×104.6cm
•所蔵:マウリッツハイス美術館(オランダ、デン・ハーグ)
•来歴:1876年にオランダ政府が購入。当時はフェルメールでなくニコラース・マースの作品と信じられていた。現存するフェルメール作品のうち、神話の登場人物を題材にした唯一のもの。多くの研究者がフェルメールの真作とするが、小林頼子のように疑問を呈する研究者もある。

一番手前の人物がディアナ(頭上の三日月の飾りとウエストに巻いた動物の皮からそれと分かる)。ニンフの一人がディアナの足を洗っているのは、キリストが弟子の足を洗ったエピソードを思わせる。他にも前景の水盤(純潔の象徴)、アザミ(受難の象徴)などのキリスト教的シンボルが目につく。ディアナの隣のニンフが自分の足をつかんでいるのも、十字架に足を釘付けされたキリストの受難を暗示する。画面左端の犬(スプリンガー・スパニエル)は、現存するフェルメール作品に登場する唯一の犬である。修復前には画面の右上方に青空が描かれていたが、これは後世に描き足されたものと判明し、修復時に除去されている。また、画面の右端が切り縮められており、制作当初の画面は現状より12センチほど幅が広かったと推定されている。

•A-4《取り持ち女》
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•制作年代:1656年
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:140×130cm
•所蔵:アルテ・マイスター絵画館(ドイツ、ドレスデン)
•来歴:「取り持ち女」とは「やり手婆」などとも言い、売春婦と客との仲立ちをする女性のこと。この作品では左から2番目の人物がこれに当たる。その右にはワイングラスを手にした売春婦と金貨を手にした客がいる。画面左端にいるもう一人の人物(ワイングラスと弦楽器を持ち、鑑賞者に視線を向けて薄笑いしている)をフェルメールの自画像とする説があるが確証はない。

フェルメールの義母(妻の母)マーリア・ティンスは、ディルク・ファン・バビューレン(1590年 - 1624年)という画家の描いた『取り持ち女』の絵を持っていた。バビューレンの『取り持ち女』は、フェルメールの他の作品、『合奏』と『ヴァージナルの前に座る女』に画中画として登場する。若き頃の作品であるため、本来奥行きのある作品だがまるで空間の整理が出来ていない。天才も人間味溢れる一人の人間であったことを感じさせる作品である。

A-5《眠る女》
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•制作年代:1657年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:87.6×76.5cm
•所蔵:メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
•来歴:デパート経営者のベンジャミン・アルトマンが1908年に購入。1913年にメトロポリタン美術館に遺贈。

室内の女性を描いた作品のうちもっとも初期のもの。画中にあるライオンの頭部の飾りのついた椅子、東洋風の絨毯、白いワイン入れなどは、以後のフェルメールの作品にしばしば登場する。テーブルの上の2つのワイングラス(1つは倒れている)は、女が酒に酔って眠り、家庭の主婦としての勤めをおろそかにしていることを暗示している。テーブルの上の果物の鉢も性的な堕落を示唆するものである。女の背後の壁に掛けられた絵は、暗くてよく見えないが、キューピッドが仮面(虚偽の愛)を踏み付けている様子がわずかに見える。女の背後の開けっぱなしのドアの向こうには隣の部屋が見える。X線写真によると、絵のこの部分には犬(やはり性的なものを示唆する)と、一人の男が描かれていたが、後に画家によって塗りつぶされたことが明らかになっている。

A-6《窓辺で手紙を読む女》
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•制作年代:1657年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:83×64.5cm
•所蔵:アルテ・マイスター絵画館
•来歴:1742年にアルテ・マイスター絵画館が購入。当時はレンブラントの作品と見なされていた。左方から光の入る室内にたたずむ女性というフェルメールの典型的作品のうち、もっとも早い時期のものとされる。女性の手前にはリンゴ、桃などが盛られた果物鉢が見える。傾いた鉢からこぼれるこれらの果物は堕罪や許されざる愛を暗示し、開かれた窓は外界への憧れを暗示する。

X線写真によって、背景の壁には当初キューピッドの絵が掛けられ、画面右手前にはワイングラスが描かれていたが、後に塗りつぶされたことがわかっている。キューピッドやワイングラスは、画中の女性が読む手紙が不倫相手からのものであることをさらに強く暗示する。

A-7《小路》
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•制作年代:1657 - 1658年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:53.5×43.5cm
•所蔵:アムステルダム国立美術館(オランダ、アムステルダム)
•来歴:フェルメールの2点しか現存しない風景画のうちの1つ(もう1点は『デルフトの眺望』)。デルフト市内のどこで描かれたかについては諸説あり、特定の場所を描いたものではないとする説も有力である。

A-8《士官と笑う娘》
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•制作年代:1658年 - 1660年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:50.5×46cm
•所蔵:フリック・コレクション(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
•来歴:邦題は『兵士と笑う娘』とも。ワインを飲む女性と男性というテーマの作品は他に2点ある(『紳士とワインを飲む女』、『ワイングラスを持つ娘』)。女性の服は『窓辺で手紙を読む女』の女性の服と似ている。女性に比べ、手前の男性が不釣合いに大きく描かれているのは、作画にカメラ・オブスクラを利用したためと言われている。背景の地図はウィレム・ヤンスゾーン・ブラウが1620年に出版したホラント州と西フリースラントの地図で、『青衣の女』にも描かれている。

A-9《牛乳を注ぐ女》
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•制作年代:1658年 - 1660年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:45.4×40.6cm
•所蔵:アムステルダム国立美術館(オランダ、アムステルダム)
•来歴:『デルフトの眺望』『真珠の耳飾の少女』とともに、フェルメールのもっとも著名な作品の一つで、壁、パン、籠、陶器などの質感描写が高く評価されている。画面右下の箱状のものは足温器。フェルメールの作品には女性像が多いが、働く女中を単独で表したものはこれ1点のみである。

A-11《紳士とワインを飲む女》
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•制作年代:1658年 - 1660年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:65×77cm
•所蔵:絵画館(ドイツ、ベルリン)
•来歴:邦題は『ぶどう酒のグラス』とも。室内の男女、ワインを飲む女性というテーマは明らかに男性から女性への誘惑を意味している。椅子に置かれた楽器(リュート)も恋愛と関わり深いモチーフである。男性の手はテーブルの上のデカンタの取っ手をつかみ、女性にもっとワインを飲ませようとするかに見える。窓の色ガラスには片手に直角定規、片手に馬の手綱とくつわ(欲望の統制を寓意する)を持つ「節制」の寓意像が表され、女性の行為に警告を発している。

A-12《ワイングラスを持つ娘》
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•制作年代:1659年 - 1660年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:77.5×66.7cm
•所蔵:ヘルツォーク・アントン・ウルリッヒ美術館(ドイツ、ブラウンシュヴァイク)
•来歴:邦題は『2人の紳士と女』とも。室内の男女とワインという道具立ては『紳士とワインを飲む女』と似ているが、もう一人の男性が加わることと、女性の仕草にワインを飲むべきかためらっている様子の見えることが異なっている。男性2人の関係はあいまいで、女性に飲酒を勧めている男性は、後方に腰掛ける男性と女性との間を取り持っているとも見られている。

窓ガラスの「節制」の寓意像は『ぶどう酒のグラス』と同じ。背景の画中画に描かれた男性の視線はワイングラスを持つ女性の方に向けられ、この場のなりゆきを見守るかのようである。

C.1660年代の作品

C-1《中断された音楽の稽古》
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•制作年代:1660年 - 1661年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:39.3×44.4cm
•所蔵:フリック・コレクション
•来歴:音楽は恋愛と関連の深いモチーフである。左上の壁に掛けられた鳥篭は、家庭の主婦に期待される貞節を暗示する。背景の画中画は黒ずんでよく見えないが、片手にカードを持つキューピッドの像で、「真実の愛はただ一人の人のためにある」という寓意を表すとされる。全体に画面の損傷が大きい。

C-2《デルフトの眺望》
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•制作年代:1660〜1661年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:96.5×115.7cm
•所蔵:マウリッツハイス美術館
•来歴:運河と市壁に囲まれた都市デルフトを市の南端にあるスヒー川の対岸から眺めた図。中央にスヒーダム門、右にロッテルダム門が描かれ、スヒーダム門の時計から、時間が朝の7時過ぎであることがわかる。2つの門の間からは新教会の塔がひときわ明るく照らされているのが見える。

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に言及されていることで著名な作品である。『失われた時を求めて』で重要なモチーフになっている「黄色い壁」はロッテルダム門の左に見えるが、実際は「壁」ではなく屋根であると思われる。

C-3《音楽の稽古》
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•制作年代:1662年 - 1664年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:74×64.5cm
•所蔵:ロイヤル・コレクション(イギリス、バッキンガム宮殿)
•来歴:女性が弾く楽器はヴァージナルで、その蓋には「音楽は喜びの伴侶、悲しみの薬」というラテン語の銘がある。

ヴァージナルの上に掛かる鏡は女性の姿を正しく写しておらず、鏡の中の女性の顔は音楽教師の男性の方へ向けられている。鏡の中には画家のイーゼルの一部も写りこんでいる。エックス線写真によると、当初は男女の距離はもっと近く、女性の頭部は男性の方に向いていた。

C-4《青衣の女》
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•制作年代:1663年 - 1664年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:46.6×39.1cm
•所蔵:アムステルダム国立美術館
•来歴:1847年、アムステルダムの銀行家アードリアン・ファン・デル・ホープが市に寄贈。フェルメールの画業の最盛期である1660年代半ばに何点か描かれた、室内の女性単独像の1つである。

画面向かって左から光が差す点は他の作品と共通しているが、他の作品と異なり、窓そのものは画面に描かれていない。女性は妊娠しているように見えるが、この当時の女性のファッションはふくよかなシルエットが好まれ、厚手の綿の入ったスカートをはいているために妊娠しているように見えるのだという説もある。この点は、『天秤を持つ女』『真珠の首飾りの女』にも共通する。

C-5《天秤を持つ女》
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•制作年代:1664年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:39.7×35.5cm
•所蔵:ナショナル・ギャラリー(アメリカ合衆国、ワシントンD.C.)
•来歴:ピーター・A・B・ワイドナー旧蔵。1942年に息子のジョセフからナショナル・ギャラリーに寄贈。

左から光が差す室内に立つ女性というテーマはおなじみのものだが、本作品では閉じられたカーテンを通してわずかに光が差すのみである点が他の作品と異なる。テーブルの上には宝石箱と真珠のネックレスが見え、光を反映している。女性が右手に持つ天秤は真珠か金貨を量っているように見えるが、実際には天秤の皿の上には何も乗っていない。女性の背後の絵は「最後の審判」、つまり、人間の魂が秤にかけられ、天国と地獄に振り分けられる様を表している。

C-6《水差しを持つ女》
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•制作年代:1664年 - 1665年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:45.7×40.6cm
•所蔵:メトロポリタン美術館
•来歴:銀行家のヘンリー・G・マーカンド旧蔵。左から光が差す室内に立つ女性という、おなじみのテーマである。女性は右手を窓枠にかけ、左手でテーブルの上の水差し(純潔や節制の象徴とされる)の取っ手をつかむ。窓の外に水差しの水を捨てようとしているかに見える。テーブルの上の宝石箱は虚栄を表すモチーフである。女性は「節制」を捨て、「虚栄」に走るべきかどうかの岐路に立っているのであろうか。

C-7《リュートを調弦する女》
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•制作年代:1664年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:51.4×45.7cm
•所蔵:メトロポリタン美術館
•来歴:鉄道王コリス・P・ハンティントン旧蔵。1925年、メトロポリタン美術館に遺贈。

題名は『窓辺でリュートを弾く女』とされることもあるが、画中の女性はリュートを弾いているのではなく、調弦しているところである。女性は窓の外を見つめ、誰か(おそらくは恋人)のやって来るのを心待ちにしている風情である。本作品は保存状態が悪いために傷みが激しく、また画面の暗さのため分かりづらいが、画中にはもう1つの楽器(ビオラ・ダ・ガンバ)があり、向かって右には空席の椅子があることも、やがてやって来る来訪者のあることを暗示している。

C-8《真珠の首飾りの女》
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•制作年代:1664年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:51.2×45.1cm
•所蔵:絵画館(ドイツ、ベルリン)
•来歴:左から光が差す室内に立つ女性という、おなじみのテーマである。髪にリボン、耳に真珠のイヤリングを付けた女性は、真珠のネックレスに付けたリボンを持ち上げ、左の壁に掛かった鏡を見つめている。鏡、宝石などのモチーフは伝統的に虚栄を表すものである。

背景は白い壁のみだが、エックス線写真により、当初は壁にネーデルラントの地図が掛けられていたのを後に塗りつぶしたことがわかっている。女性の着ている毛皮の縁のついた黄色の上着は『手紙を書く女』『婦人と召使』など、他のいくつかの作品にも登場するもので、フェルメールの死後に作成された財産目録にはこの上着に該当すると思われる「白の縁取りのついた黄色のサテンのコート」が記されている。

C-9《手紙を書く女》
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•制作年代:1665年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:45×39.9cm
•所蔵:ナショナル・ギャラリー
•来歴:画中の若い女性は、羽ペンを持って手紙を書く手を止めて鑑賞者の方へ視線を向けている。白い毛皮の縁のついた黄色い上着、テーブルの上の宝石箱とリボンのついた真珠のネックレスなどのモチーフは他の作品にも使われているものである。

C-10《赤い帽子の女》
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•制作年代:1665年〜1666年頃
•技法:板、油彩
•サイズ:22.8×18cm
•所蔵:ナショナル・ギャラリー
•来歴:他のフェルメール作品に比べて例外的にサイズが小さいこと、カンヴァスでなく板に描かれていることなど異色の作品であり、フェルメールの真作であるかどうか疑問視する意見もある。

絵の前面には、フェルメールの絵にしばしば登場する、背もたれに獅子頭の飾りの付いた椅子の飾りの部分のみが見えている。絵の各所に見られる、フォーカスがぼけたような表現や点描風の描き方は、カメラ・オブスクーラを利用して作画したためではないかと言われている。エックス線写真によって、この作品は男性の肖像を描いた別の絵を塗りつぶして描かれたことがわかっている。

C-11《真珠の耳飾の少女(青いターバンの少女)》
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•制作年代:1665年 - 1666年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:44.5×39cm
•所蔵:マウリッツハイス美術館
•来歴・デン・ハーグのコレクター、デス・トンブ旧蔵。1902年、マウリッツハイス美術館に遺贈。

少女の謎めいた雰囲気から「北方のモナリザ」とも呼ばれ、フェルメールの最も有名な作品の一つである。他の多くのフェルメール作品と異なり、この作品には物語性や教訓性はなく、無地の暗い背景に少女の上半身だけが描写されている。修復時の調査により、下塗りには場所によって黄土、赤、クリーム色などさまざまな色を使い分け、微妙な階調を出していることがわかった。少女の衣服の襟の白色がイヤリングに反映しているところも的確に描写されている。修復の結果、唇の両端に白の点を置き、唇の濡れている感じを表していることもわかった。

この作品は、トレイシー・シュヴァリエが2000年に発表した小説『真珠の耳飾りの少女』およびそれを原作とした映画によって一段と有名になった。小説ではフェルメール家の女中がモデルとされ、画家と女中の間に淡い恋物語が展開するが、無論これはフィクションで、実際のモデルは誰だったか(そもそも特定のモデルがいたのかどうか)は不明である。

C-12《合奏》
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•制作年代:1665年 - 1666年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:72.5×64.7cm
•所蔵:イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館(アメリカ合衆国、ボストン)
•来歴:1892年にイザベラ・スチュワート・ガードナーがパリで開催されたオークションで5,000ドルで落札、1903年に創設した自身の美術館に所蔵。1990年に盗難されて以降行方不明。

画面奥に楽器を演奏する人物を配する点は『音楽の稽古』と似るが、この絵では女性が2人になっている点が異なっている。

左の女性が弾く楽器はチェンバロ(クラヴサン)で、蓋の裏面には田園風景の絵が描かれている。こちらに背を向けた中央の男性は斜めに置かれた椅子に腰掛けてリュートを弾き、右の女性は右手で調子を取りながら歌っている。

背後の壁に掛けられた絵のうちの1枚は、フェルメール家の所蔵品であったディルク・ファン・バビューレン作『取り持ち女』である。これは売春婦と客、その両者を取り持つ「取り持ち女」を描いた絵であり、リュートを弾く男性の関心が音楽以外のところにもあることを暗示している。

本作は1990年3月18日に所蔵先の美術館から盗まれた。フェルメールの作品は1970年以降相次いで盗難に遭ったが、本作品のみが現在も未発見であり、FBIが捜査中である。

C-13《フルートを持つ女》
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•制作年代:1665年 - 1670年頃
•技法:板、油彩
•サイズ:20×17.8cm
•所蔵:ナショナル・ギャラリー
•来歴この作品は保存状態が悪い上に出来映えも他のフェルメール作品に比べて劣ると評価され、フェルメールの真作とは見なさない研究者が多い。

所蔵先の美術館でも「伝・フェルメール作」と表示している。フェルメールの描いた未完成作を彼の死後に他の画家が補筆したものだという説もある。フェルメール作とされる絵画のうち、板に描かれているのは本作品と『赤い帽子の女』のみである。

C-14《絵画芸術》
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•制作年代:1666年 - 1667年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:120×100cm
•所蔵:美術史美術館(オーストリア、ウィーン)
•来歴:こちらに背を向け、イーゼルに向かう画家とモデルの少女とが表されている。この作品は単なるアトリエ風景の描写ではなく、「絵画芸術」そのものをテーマとした寓意画と見なされている。

青のローブと黄色のスカートをまとったモデルの少女は月桂冠をかぶり、名声を象徴するトランペットと歴史を象徴する分厚い本を手にしている。通説ではこの少女は歴史のミューズであるクリオであり、画家(一説にはフェルメール自身と解釈されている。)は「歴史画」を描いていることになる。

「歴史画」とは、聖書や古代の神話、古典文学、歴史上の事件などを題材とした絵画のことである。描く画家にも一定の教養と構想力が要求される「歴史画」は、西洋においては「風俗画」「肖像画」「静物画」「風景画」などの他のジャンルの絵画よりも一段高いランクの絵画と見なされていた。

背景の壁にかかる地図は、カルヴァン派(新教)の北部諸州(オランダ)とカトリックの信仰を守った南部諸州(後のベルギー)に分かれる以前のネーデルラントの地図である(ただし、地図の中央にある大きな折りじわが南北両地域の境に当たることが指摘されている)。

天井から下がるシャンデリアには過去の支配者であるハプスブルク家の紋章(双頭の鷲)が表されている。これらのモチーフは、フェルメールのカトリック信仰の表明とも見なされている(フェルメールは新教徒の家に生まれたが、結婚の際にカトリックに改宗したと推定されている)。しかし、画面中央にフェルメールの名前が刻まれていることから、後世の見る目のない批評家、美術史家の解釈を含めた作品、それらを超える作品であると言える。なお、第二次世界大戦中、ヒトラーのためにナチス・ドイツに接収された。

C-15《少女》
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•制作年代:1666年 - 1667年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:44.5×40cm
•所蔵:メトロポリタン美術館
•来歴:『真珠の耳飾の少女』と同様、無地の暗い背景に少女の上半身のみが描かれている。しかし、『真珠の耳飾の少女』ほど評価は高くなく、絵全体の印象もかなり異なっている。『真珠の耳飾の少女』同様、実在のモデルを描いたものかどうかは定かではない。

C-16《婦人と召使》
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•制作年代:1667年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:90.2×78.7cm
•所蔵:フリック・コレクション
•来歴:女主人と女中、そして手紙というモチーフは他の作品(『恋文』『手紙を書く婦人と召使』)にも共通するものだが、本作品では背景を黒で塗りつぶしている点が他と異なっている。女性が着ている、毛皮の縁のついた黄色の上着は他のいくつかの作品にも登場するものである。

C-17《天文学者》
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•制作年代:1668年
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:50×45cm
•所蔵:ルーヴル美術館(フランス、パリ)
•来歴:1886年以来ロートシルト家の所蔵。1940年ナチス・ドイツに接収されるが、第二次世界大戦後オーストリアで発見され、ロートシルト家に返却される。

その後ルーヴル美術館の所蔵。フェルメールの現存作のうち、作者のサインとともに制作年が記された数少ない絵の1つである(他に制作年が記載されているのは『地理学者』、『聖プラクセディス』、『取り持ち女』のみ)。

本作品は『地理学者』とサイズがほぼ等しく、両者は一対の作品として構想されたとするのが通説である。モデルについては確証はないが、フェルメールと同年の生まれで、同じデルフトの住人であった科学者アントニ・ファン・レーウェンフックではないかと言われている。フェルメールの死後、レーウェンフックが遺産の管理にあたっていることなどから、2人の間には何らかの交流があったと考えられている。

天文学者は天球儀に向かっている。その手前にあるのはアストロラーベという、天体の角度を測る器械である。机の上の本は研究者のJ・A・ウェリュ(J. A. Welu)によってアドリアーン・メティウス著『星の研究と観察』という書物であることが指摘され、その本の何ページが開かれているかまで解明されている。壁の絵は『モーセの発見』であり、ユダヤの民を導いたモーセは地理学・天文学にも縁のある人物だと解釈されている。

C-18《地理学者》
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•制作年代:1669年
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:51.6×45.4cm
•所蔵:シュテーデル美術館(ドイツ、フランクフルト)
•来歴:『天文学者』と対をなす作品とされる。フェルメールの作品のうち、男性単独像は本作と『天文学者』の2点のみである。

モデルは長髪や鼻の形が『天文学者』の男性と似ており、同一人物のように見える。地理学者は日本の綿入はんてんのようなローブを着、手にはコンパス(またはディバイダ)を持っている。背後のたんすの上の地球儀は、『天文学者』に描かれている天球儀とともにヨドクス・ホンディウス(英語版)(1563年 - 1612年)の作になるものである。

C-19《レースを編む女》
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•制作年代:1669年 - 1670年頃
•技法:カンヴァス(板の裏打ち)、油彩
•サイズ:23.9×20.5cm
•所蔵:ルーヴル美術館
•来歴:フェルメールの作品には小品が多いが、中でも本作は『赤い帽子の女』『フルートを持つ女』とともにサイズの小さい作品の1つであり、(板でなく)カンヴァスに描かれた作品の中ではもっとも小さい。手紙のやりとり、楽器の演奏、飲酒といったテーマから離れ、生産的活動に努める女性を単独で表している点で、他のフェルメール作品とは異なっている。絵の各所に見える焦点のぼけたような描写(特に女性の手前の赤い糸に顕著に見られる)はカメラ・オブスクーラを用いて作画したことの影響と見なされている。

C-20《恋文》
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•制作年代:1669年 - 1670年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:44×38cm
•所蔵:アムステルダム国立美術館
•来歴:手紙を読み、書き、受け取る女性の像は、フェルメールの得意としたものである。本作品では、手紙を受け取って当惑顔の女主人と、訳知り顔の女中が描かれ、物語の細部は鑑賞者の想像にゆだねられている。女主人が手にしている楽器(ここではシターン)は恋愛と関係の深いモチーフである。また、背後の壁に掛かる海景を表した絵は、女性の揺れ動く心を象徴している。洗濯物の入った籠や画面手前に見える箒は、恋に落ちた女性が(17世紀当時の価値観では女性の義務であった)家事をおろそかにしていることを暗示している。女主人と女中の描かれている長方形の空間を「鏡」であると見なす研究者もいる。なお、この作品は、ブリュッセルにおける展覧会に貸し出し中の1971年9月24日に盗難に遭い、2週間後に発見されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出して丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。窃盗犯は、東パキスタン難民義援金を要求しマスコミとも接触、その後ブリュッセル郊外で通報により逮捕され、懲役2年の判決を受けたが半年で出獄、29歳で病死した。難民救済と文化財のことの軽重を問う物議が起きた。

E.1670年代の作品

E-1《ギターを弾く女》
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•制作年代:1670年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:53×46.3cm
•所蔵:ケンウッド・ハウス(イギリス、ロンドン)
•来歴:フェルメールの晩年(と言っても30代後半から40代前半であるが)の1670年代の作品には、明らかな画力の低下が見られ、この時期の作品は一般にあまり高く評価されていない。本作品も1660年代の最盛期の作品に比較すると表現が平板で単調になっている点は否めない。この作品は1974年2月23日に盗難に遭った。犯人からは絵の返却と引き換えに政治的な要求が突き付けられ、その内容からIRA系の人物の犯行と推定された。要求が通らない場合は絵を燃やすとの声明もあったが、盗難から2か月半後の5月6日、匿名の人物からの電話通報により、絵はロンドン市内で無事発見された。

E-2《手紙を書く婦人と召使》
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•制作年代:1670年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:71.1×60.5cm
•所蔵:アイルランド国立絵画館(アイルランド、ダブリン)
•来歴:ダブリンの実業家が旧蔵。1987年に現美術館に寄贈。

フェルメールの作品には手紙をモチーフにしたものが多く、本作品もその中の1つである。女主人と女中を描いた作品は他に『恋文』と『婦人と召使』があるが、これら2作品が女中が女主人に手紙(おそらくは男性の愛人からのもの)を渡す場面を描いているのに対し、本作品では女性が手紙を書き、女中はその手紙が書き終わるのを待っているという構図である。女中は窓の外を見やっている。テーブルの前の床には印章と封蝋(手紙に封をするためのもの)が転がっている。背後の壁の絵は『モーセの発見』をテーマにしたもので、『天文学者』の背景にも描かれている。この絵は、アイルランドの首都ダブリンの近郊のブレシントンの実業家が所蔵していた時に2度盗難に遭っている。1度目は1974年4月26日に武装した犯人らにより強奪され、約1週間後の同年5月4日に発見された。犯人の1人はIRA支持者で指名手配中であったイギリスの上流階級出身の女性であった。判決は懲役9年。この事件の直後の修復で絵画上に「封蝋」が描かれていたことが発見された。12年後の1986年5月21日には同じ家からまたも盗まれ、この際はすぐには発見されなかったが、1993年、捜査当局は絵がベルギーにあってIRAに敵対する組織に密売されようとしていることを突き止め、ベルギー、イギリス、アイルランドの警察が合同で囮捜査を開始。同年9月1日、ベルギーのアントウェルペンで無事に絵を回収、犯人はアイルランドでも指折りの犯罪者マーチン・カーヒルであった。彼は逮捕されることはなかったが、後にIRAにより殺害された(映画『ザ・ジェネラル』に描かれている)。 絵はこの間の1987年にアイルランド国立絵画館に寄贈されている。

E-3《信仰の寓意》
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•制作年代:1671年 - 1674年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:114.3×88.9cm
•所蔵:メトロポリタン美術館
•来歴:この作品より数年前に描かれた『絵画芸術』と同様、寓意をテーマにした作品であり、部屋の様子も『絵画芸術』のそれと似ている。片足を地球儀の上に乗せ、片手を胸に当てる女性は信仰の寓意像であり、手前の床に転がるリンゴと血を吐く蛇は原罪の象徴である。女性の視線は天井から下がるガラスの球体に向けられているが、この球体は信仰を受け入れる人間の理性の象徴とされている。女性の服装を含め、画中の道具立てはペルージャ出身のチェーザレ・リーパが著した寓意画像集『イコノロギア』に基づくものであることが指摘されている。背景の画中画はキリストの磔刑図で、ヤーコプ・ヨルダーンスの作とされている。オランダでは建国以来プロテスタントが支配的で、フェルメールの住んだデルフトも例外ではなかったが、本作品に見られるキリスト教のモチーフはカトリック的であり、カトリック信者からの注文と思われる(フェルメール自身は、結婚時に新教からカトリックへ改宗したと推定されている)。本作品については、細部はよく描かれているものの、女性の身振りが芝居がかっていて品位に欠ける点、女性の身体把握(特に右脚の位置)に不自然さが見られる点などから、現代の美術界ではあまり高い芸術的評価は与えられていない。

E-4《ヴァージナルの前に立つ女》
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•制作年代:1672年 - 1673年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:51.8×45.2cm
•所蔵:ナショナル・ギャラリー(イギリス、ロンドン)
•来歴:似た主題の『ヴァージナルの前に座る女』とともに晩年の作品と見なされている。左方の窓から光の入る室内という設定はおなじみのものだが、この作品では、室内全体が明るく照らされていることと、女性が光に背を向けて立っている点が他の作品と異なっている。

背景の画中画はトランプの「1」のカードを持つキューピッド像で、女性の愛がただ一人の人にのみ向けられるべきものであることを意味している。同じ画中画は『中断された音楽の稽古』にも見られる。室内の壁の一番下、床との境目の部分には白地に青の模様の入ったデルフト焼きのタイルが貼られている。これは壁のこの部分が掃除の時などに傷むのを防ぐためのものである。

E-5《ヴァージナルの前に座る女》
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•制作年代:1675年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:51.5×45.6cm
•所蔵:ナショナル・ギャラリー
•来歴:『ヴァージナルの前に立つ女』やヤン・ミーンス・モーレナール作の『ヴァージナルを奏でる女』(アムステルダム国立美術館所蔵)とテーマが似ている。

前者とは画面のサイズもほぼ等しいことから対の作品として描かれた可能性がある。ただし、本作品は『ヴァージナルの前に立つ女』に比べても一段と画力の衰えが見られ、フェルメールが43歳で没する直前の最晩年の作と考えられている。画力の衰えは、背景の画中画の額縁の簡略な描き方や、ヴァージナルの側面の大理石模様の描写などに端的に見られる。画中画は『合奏』の背景にも描かれていた、ディルク・ファン・バビューレン作『やり手婆あ』(娼館の情景を描いた絵)であるが、この画中画が絵のテーマと密接に関係しているかどうかは定かでない。

E-6《ヴァージナルの前に座る若い女》
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•制作年代:1670年頃
•技法:カンヴァス、油彩
•サイズ:5.2×20cm
•所蔵:個人蔵
•来歴:ベイト・コレクション旧蔵。1960年にベイト家からブリュッセルの個人に譲渡。2004年、サザビーズに出品。

本作品はベイト・コレクション旧蔵で、文献で初めて紹介されたのは1904年であるが、長年模作または贋作と見なされていた。専門家による鑑定の結果、キャンバスと絵具が17世紀のものであることが明らかとなり、フェルメールの真作と見なされるようになったのは2004年のことであった。

そして同年のサザビーズのオークションに出品されて一般に知られるようになった。2008年の東京におけるフェルメール展の監修者であるピーター・C・サットンは、この作品のカンヴァスの組織が『レースを編む女』のカンヴァスとほぼ同一であり、両者は同じ布から裁断されたと推定されること、本作品と『レースを編む女』のモデルの髪型がほぼ同じであること、本作品にはフェルメール特有の画材である、高価なラピスラズリが使用されていることなど、作風、技法の両面から、本作をフェルメールの真作と断定している。一方、小林頼子のように本作を真作と認めるにはなお検討を要するとする立場の研究者もいる。

美術散歩 管理人 とら 

田中一村 @日曜美術館

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これは本日の日曜美術館「田中一村」のメモ。

今まで「田中一村展」は、「千葉市美術館」と「とちぎ蔵の街美術館」で見ており、それぞれブログないしホームページにレポートを書いている。

①田中一村 新たなる全貌 @千葉市美術館 ブログ  
②田中一村の世界 @とちぎ蔵の街美術館 ブログ ホームページ

今年は、田中一村の生誕110年なので、彼の回顧展が滋賀県守山市の「佐川美術館」と奄美大島の「田中一村記念美術館」で開かれている。
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50歳のとき奄美大島の自然に魅せられて移り住み、その風土を鮮やかに描き出した。そんな田中一村の画業の足跡をたどる。
 
明治41年に生まれた田中一村は、彫刻家だった父親の手ほどきで絵を学び、8歳のころから神童と呼ばれた。一村が得意としたのは「文人画」(↓)。
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優秀な成績で東京美術学校に入学するが、もはや「文人画」は教えないという東京美術学校の教育方針の違いから自ら退学し、自分独自の世界を切り開いていった。

《白い花》(↓)
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《秋晴》(↓)
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 特に旅で九州を訪れ、南国の自然に魅せられ、それが奄美大島に渡るきっかけとなった。

(↓)は阿蘇山草千里での《放牧》。
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(↓)は宮崎の青島。
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青島は、亜熱帯植物のビロウ樹(↓)で覆われ、鬼の洗濯板で囲まれている。
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ここで田中一村は《青島の朝」などを描いた。
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奄美では木々や生き物すべてに神が宿るという信仰があり、彼の画風は森に抱かれるような心象風景にまで昇華していった。

《榕樹に虎みゝずく」(↓)。 
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《奄美の海に蘇鉄とアダン》(↓)
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《アダンの海辺》(↓)
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《初夏の海に赤翡翠》(↓)
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奄美では、田中一村は「国立療養所 奄美和光園」の宿舎を宿とした。
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その際に世話になったのは、当時奄美和光園総務課長だった松原若安さん。
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今回日曜美術館の担当者が会ったのは、その息子・松原千里さん。
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千里さんが「おにぎり」を持っていくと、一村は岩に腰掛けて「赤い鳥」がくるのを辛抱強く待っていた。
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オーストンオオアカゲラ
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魚屋の女主人・押川フサエさん。
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描きたい魚は陳列箱から出して・・・
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「どこでもいいから描いていいですよ」って主人が言ったから。
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鱗も欲しいと、鱗をきれいに洗って、ある程度乾いたところで持ち帰った。
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これが《海老と熱帯魚》という作品になった。
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 【ゲスト】美術評論家・大矢鞆音 田中一村展(佐川美術館)監修者 
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 【司会】小野正嗣 高橋美鈴 @田中一村展(佐川美術館) 
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美術散歩 管理人 とら 

琉球 美の宝庫 @サントリー美術館

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猛暑の中、サントリー美術館へ行ってきました。

まずは中華料理「辣鼎風」(↓)に寄り、「海老湯麺」(↓↓)で腹ごしらえ。。
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サントリー美術館で見た展覧会は「琉球 美の宝庫」。この「琉球美術展」の開催期間は、2018年7月18日(水)~9月2日(日)という猛暑の夏にぴったり。
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【展覧会の概要】

多くの島々からなる沖縄は、かつては「琉球」と称され、独自の美が生み出された海上王国。

15世紀に統一王朝が成立し、400年以上にわたって東アジアを舞台に「万国津梁(世界の架け橋)」として繁栄した琉球王国は、諸国の至宝で満ちていた。

今回紹介されているのは、①鮮やかな紅型に代表される「染織」、②中国・日本から刺激を受けて描かれた「琉球絵画」、③螺鈿・沈金・箔絵などの技法を使ったきらびやかな[漆芸作品」。なかでも、東京で近年まとまって公開されることがなかった「琉球絵画」は必見である。

首里王府の染織や漆器のデザインには、「絵師」が関わっていたとされており、「染織」・「絵画」・「漆芸」を特集することで、この展覧会は琉球の美術を総合的にとらえている。

これは、第二次世界大戦の戦禍をくぐりぬけ現在に守り伝えられた優品が集う貴重な機会であり、とくに首里王府を治めた尚家に継承された「国宝 琉球国王尚家関係資料」は必見である。

第1章 琉球の染織

豊かな風土をもった琉球王国は、海上交易を通じて独自の文化を発展させてきた。琉球の染物と織物は、東アジア諸国の技法や素材を受容しながら創り出され、王国を象徴する美のひとつとなっている。

琉球の染物といえば王族や貴族階層を中心に着用されたとされる「紅型衣裳」が知られている。型紙を用いて模様を染め出す「型染め」が紅型の代表的な技法で、鳳凰・龍・牡丹など大陸由来のモチーフや松・桜・梅といった日本的な意匠が鮮やかな色彩で表現されている。

中国や東南アジアから伝わった織物も見逃せない。数多くの種類があり、部分的に染め分けた糸を織って幾何学的な文様を表した「絣」や、糸を浮かせて文様を表現する「花織」など、多彩な織物が細やかに生み出された。

これら琉球の染織のうち、王族ら高貴な人々の衣裳は、首里王府にあった「貝摺奉行所」という機関にいた絵師が下絵を担当していたといわれている。本章では、琉球王国の染織を特集し、その美しい色彩世界とデザインを展観している。

白地流水蛇籠に桜葵菖蒲小鳥模様衣裳 19世紀沖縄県立博物館・美術館【展示期間:7/18~8/6】
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<第2章 琉球絵画の世界

第二次世界大戦によって沖縄の美術は大きな被害を受け、琉球王国の絵画の多くが失われた。その全容は謎に包まれているが、現存作例や戦前の写真資料からは琉球の絵師が高い画技をもっていたことが伝わってくる。琉球の絵画はいまだ研究途上だが、ここでは主に近世琉球期(1609~1879)に描かれた作品を「琉球絵画」として紹介する。

首里王府には国際的なネットワークを通じて中国や日本絵画の優れたコレクションが集められていた。王府の貝摺奉行所に所属した絵師は、中国や薩摩藩の絵画から刺激を受けながら独自の作品を描くとともに、染織・漆芸・室内装飾のデザインを担当したといわれている。また、貝摺奉行所に属さず、王府直属のお抱え絵師(宮廷画家)として活躍するものもいた。

本章では、琉球絵画史上最初に名があがる自了(和名: 城間清豊、1614~1644)から、王国を代表する絵師である山口宗季(唐名:呉師虔、1672~1743)、宮廷画家として活躍した座間味庸昌(唐名:殷元良、1718~1767)らの作品を通じて琉球絵画の実像に迫っている。

さらに、首里王府から派遣された絵師が学んだ中国・福州画壇の作品や、江戸で一大ブームとなった「琉球使節」を主題とする品々を展観している。

・花鳥図 山口宗季(呉師虔)筆 1715年 大和文華館【展示期間:8/8~9/2】
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・ 雪中雉子之図 座間味庸昌(殷元良)筆 18世紀 沖縄県立博物館・美術館【展示期間:7/18~8/6】
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・雪景山水図 座間味庸昌(殷元良)筆 18世紀 沖縄県立博物館・美術館【展示期間:8/8~9/2】
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・首里那覇港図屏風 19世紀 沖縄県立博物館・美術館【展示期間:8/8~9/2】
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・琉球交易港図屏風 19世紀 浦添市美術館【展示期間:8/8~9/2】
 
・琉球進貢船図屏風 19世紀 京都大学総合博物館【展示期間:7/18~8/6】
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中央に「奉旨帰国」という旗を掲げた中国風の船。岩壁にはそれを迎える人々。「琉球進貢船図屏風」は,琉球が中国に派遣した進貢船が帰国し、にぎわう那覇港の様子を描いたものである。絵図には,鹿児島藩の武士,城(ぐすく)とよばれる琉球独特の構築物や爬竜船の競漕行事など、近世日本の支配をうけつつ、対外的には独立した国家として中国との朝貢関係を結んだ近世琉球の風俗が凝縮されている。

画像中央に進貢船、左側に那覇港,右側に首里城と城下町を配した構図の屏風は、滋賀大学経済学部附属史料館蔵「琉球貿易図屏風」、浦添市美術館蔵「琉球交易港図屏風」、沖縄県立博物館蔵「首里那覇港図屏風」が知られている。京都大学総合博物館の「琉球進貢船図屏風」は、描写の対象や手法を見る限り、滋賀大本・浦添本の系統に属するものである。 

本屏風の成立を知る唯一の手がかりは、画面左上の二つの樋である。「サバニ」と呼ばれる小さな船に桶を載せて水を汲んでいる様子は,滋賀大本・浦添本にも描かれている。現在は埋め立てられて当時の様子をうかがうことはできないが,「落平(うてぃんだ)」と注記されたこの樋は、港を出入りする船のみならず,那覇の住民にとっても大切な「水汲み場」だった。
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・琉球貿易図屏風 19世紀 滋賀大学経済学部附属史料館【展示期間:7/18~8/6】
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・琉球交易港図 19世紀 浦添市美術館【展示期間:7/18~8/6】
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第3章 琉球国王尚家の美

1470年に初代尚円が国王に即位してから、琉球王国は尚家(第二尚氏)によって治められてきた。

中国と「冊封関係」をむすび海上貿易の中継地として大いに栄えた琉球王国は、1609年に「薩摩藩の侵攻」を受けて日本の幕藩制に組み込まれたが、中国と「進貢貿易」を続け、王国体制を維持した。国家の中心であった王都首里はアジア諸国の美が結びついた琉球独自の文化で彩られ、首里城は中国をはじめ各地の宝物で満ちていた。

1868年に明治政府が成立すると、いわゆる「琉球処分」によって、19代尚秦の王位が廃され、沖縄県が設置、首里城は明治政府へ明け渡された。尚家は東京居住を命じられ、首里城内にあった王家の文物の一部は東京へ移された。

その後、1945年の沖縄戦により首里城や沖縄の文化は大きな被害を受けたが、現在にも王国の至宝の数々が受け継がれており、2006年に尚家に継承されていた美術工芸85点と文書・記録類1166点が「琉球国王尚家関係資料」として「国宝に指定」された。

本章では「琉球国王尚家関係資料」に含まれる珠玉のコレクションを特別公開し、あわせて王家や首里城にまつわる貴重な関係資料も紹介している。

・ 国宝 琉球国王尚家関係資料 玉冠(付簪)18~19世紀 那覇市歴史博物館【展示期間:8/22~9/2】
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・国宝 琉球国王尚家関係資料 美御前御揃 15~18世紀 那覇市歴史博物館【全期間展示】
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・ 国宝 琉球国王尚家関係資料 紅色地龍宝珠瑞雲模様衣裳 18~19世紀 那覇市歴史博物館【展示期間:7/18~7/30】
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第4章 琉球漆芸の煌き
 
琉球の漆芸は、中国をはじめとする周辺諸国との交流を通じて発展し、王国を代表する美として花開いた。 そのはじまりははっきりとはわかっていないが、年代が推定できる最も古い琉球沈金のひとつが、1500年に「久米島」の神女が国王から拝領した勾玉をおさめたという「黒塗菊花鳥虫沈金丸外櫃及び緑塗鳳凰雲沈金丸内櫃」(個人)。

国際交易で栄えた琉球王国において漆芸品は重要な輸出品であり、王府に設けられた「貝摺奉行所」が製作を管理し、首里城を飾った御道具類をはじめ中国皇帝や日本の将軍・大名に贈られた美術品が造られていた。

線を彫って金箔を埋める「沈金」、貝を切って文様のかたちに貼り付ける「螺鈿」、漆で文様を描いた上に金箔を貼る「箔絵」、顔料を油でといて描く「密陀絵」、漆と顔料をまぜた材料を貼って立体的に文様を表す琉球特有の「堆錦」など、さまざまな技法が駆使された。デザインには貝摺奉行所の絵師が関わっており、吉祥文や花鳥山水など中国的なモチーフが多く用いられている。本章では、時代によって変遷した技法の特徴や魅力を辿りながら、多彩な琉球漆芸の粋を展観している。

・ 朱漆椿密陀絵沈金椀 16~17世紀 サントリー美術館【全期間展示】
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・黒漆雲龍螺鈿大盆 18~19世紀 浦添市美術館【全期間展示】
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・黒漆雲龍螺鈿大盆 17世紀 サントリー美術館【全期間展示】
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エピローグ 琉球王国の記憶
 
鎌倉芳太郎(1898~1983)は、戦前の沖縄で、首里城をはじめとする建築物や美術工芸品など琉球王国時代の文化を写真に残した人物で、沖縄文化研究の第一人者である。「型絵染」の作家としても活躍し、戦後には「重要無形文化財保持者」に認定された。

サントリー美術館では、昭和47年(1972)に鎌倉芳太郎の写真を特集した「特別展観 50年前の沖縄―写真でみる失われた文化財―」(共催:琉球政府立博物館)を行ったが、ここでは、琉球王国の記憶を伝える写真の数々を鎌倉芳太郎が残した緻密な調査ノートとともに紹介する。

・鎌倉芳太郎 琉球芸術調査記録(鎌倉ノート)81冊のうちの4冊 20世紀 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術史料館

【追記】短編映画「わたしたちの宝物上映会」20分 @サントリー美術館6階ホール 

・評価 ⇒ つまらなかった。

・あらすじ ⇒ ある日、仲良しのミイとハナは、影の薄い転校生の佐藤さんからウサギ型の手紙をもらう。そこには、町の中に隠した「宝もの」への道順が記されていた。「なぞなぞ」を解きながら、大人の世界と子どもの世界、新旧の混ざり合う那覇の町を探検するミイとハナ。佐藤さんのウソとホントに惑わされながら、二人は宝ものを発見した。宝物は佐藤さんだった。
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美術散歩 管理人 とら 

縄文展 @ぶらぶら美術館・博物館

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【参考ブログ】


1.国宝 土偶展 @東京国立博物館 こちら 
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2.日本美術の流れ @東京国立美術館 こちら
 
3.火焔型土器のデザインと機能 @國學院大學博物館 こちら


4.縄文”美”の発見 @日曜美術館 こちら 


5.縄文展 @ぶらぶら美術館・博物館 ここ 


【解説者】国立東京博物館考古室長 品川欣也氏
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1.縄文時代

・縄文時代は約1万年前から、約1万年間続いた
・寒い旧石器時代から温かい縄文時代になった
・狩猟・漁労・採集など安定した定住生活を送るようになった
・縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に6分類される

2.縄文人の生活

・重文「鹿角製釣針」
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・重文「木製編籠 縄文ポシェット」お出掛け用ポシェット
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・中に入っていたクルミ(コメにくらべカロリー高い)
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・重文「土製耳飾」
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3.縄文土器

・日隆起線文土器 青森県六ケ所村 表館遺跡 縄文草創期: 土器の底がとがっているのは、石で支えたり灰に挿して使うから
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・深鉢式土器(流水文)
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・流水文
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・赤ちゃんの棺
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・深鉢式土器(水煙文)
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・山梨県甲州市 vs 群馬県渋川市
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・地域によって形に決まりがある
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・顔面把手付深鉢形土器
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・出産文土器
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・山梨県北杜市 vs 長野県 伊那市
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4.縄文人の色の好み

① 黒=重文「注口土器」
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② 赤(祭りの道具)=「漆塗注口土器」
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③ 緑=「ひすい」(糸魚川⇒全国)
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5.縄文の国宝
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・国宝「火焔型土器」新潟県十日町市笹山遺跡 縄文中期: 笹山遺跡から出土した土器や石器は、まとまった形で国宝に指定されていて、土器は57点が国宝に指定されている。今回展示されているのは、その中の《No. 6》 火焔型土器は鍋として 実際に使われていたが、縄文人は使い勝手をあまり考えていなかったようだ。
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国宝土偶5件(左⇒右)

・《仮面の女神》 長野県茅野市 中ッ原遺跡 縄文後期
・《縄文のヴィーナス》 長野県茅野市 棚畑遺跡 縄文中期
・《中空土偶》 北海道函館市 著保内野遺跡 縄文後期
・《合掌土偶》 青森県八戸市 風張Ⅰ遺跡 縄文後期
・《縄文の女神》 山形県舟形 町西ノ前遺跡 縄文中期 
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・土偶《縄文のヴィーナス》↓左 茅野市棚畑遺跡 茅野市尖石縄文考古館
・土偶《仮面の女神》↓右 茅野市中ッ原遺跡 茅野市尖石縄文考古館
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・中空土偶の修復(アスファルト)
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6.重文 遮光器土偶

・重文「遮光器土偶」青森県つがる市木造亀ヶ岡遺跡出土: 国宝になっていないのは、この土偶が明治に発見されたもので、どういった状態で発見されたかよく分かっていないため
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7.動物形等土製品

・重文「猪形土偶」青森県弘前市汁腰内2遺跡出土: 強さに対する畏れや憧れ、多産への願いを形にした動物の土偶は写実的に作られているが、リアルな人型の土偶は造られなかった
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・「多産」の願い
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・クマ・サル・フクロウ土製品
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・重文「巻貝形土製品」
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・新潟県村上市上山遺跡
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・キノコ形土製品
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・重文「動物形土製品」
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美術散歩 管理人 とら 
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