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歌川国芳の展覧会図録

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1.国芳・暁斎 なんでもこいィ展だィ! 会期:2004年12月11日~2005年1月23日、訪問日:2004年12月10日、2005年1月23日 ホームページ

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2.歌川国芳ー奇と笑いの木版画 会期:2010年3月20日ー5月9日、訪問日:2010年3月22日、5月2日

ブログ① ブログ②

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3.歌川国芳ー21世紀の絵画力 会期:2017年3月11日ー5月7日、訪問日:2017年5月4日
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美術散歩 管理人 とら




ミュシャ展 @ぶらぶら美術館・博物館

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国立新美術館で開かれている「ミュシャ展」については、いくつものブログ記事を書いてきたので、ここでは5月5日の「ぶらぶら美術館・博物館」で聴いた耳新しい事柄だけを記すこととする。

【参照】ぶらぶら美術館・博物館のマンガレポート⇒こちら

丁度5月5日ということで、東京ミッドタウンには鯉のぼりが飾られ、東京ミッドタウンの10周年記念イベントとして「江戸富士」が作られてていた。

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富士山の観測データを映像化(↓)
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夜間はイルミネーション(↓)
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ミュシャについては、なんといってもアラブ叙事詩である。説明は国立新美術館の主任研究員・本橋弥生さんが担当されたが、例によって山田五郎が出張ってくる。(↓)は、本橋さんが「2016年にプラハで開かれた”アラブ叙事詩展”は一回限りの特別展だった」と説明しているところである。
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超特大の画面であるが、巻いた形で輸送され、展示はそれを開いて、画面上縁に並んだ留金を利用する。
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ミュシャはパリでアールヌーヴォー・リトグラフを作成してそれなりの成功を得ていたが、50歳になってチェコに帰って来た。
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ここから《スラヴ叙事詩》の大画面の説明が始まる。最初は《原故郷のスラヴ民族》である。
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《スラヴ叙事詩》の技法は、ピカソやマチスの活躍した新時代にあっては時代遅れの具象画だったが、星空の表現に点描を持ちるなどの工夫もしていた。
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《ベツレヘム礼拝堂で説教するヤン・フス師》では、宗教改革を唱えるフスの説教壇は画の中心部から外れて場所に描かれており、画の中心は説教を聴く民衆にある。ちなみにフスは、1415年、火あぶりの刑に処されている。
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ボヘミア王妃ゾフィーもフスの説教を聴きに来ているが、お付きの女性は鋭い眼を後方に向けている。
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その先にはメモを取るカトリックのスパイがいる。
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(↓)の《スラブ菩提樹の下で行われるオムラジナ会の誓い》は、唯一未完成の作品である。
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その理由は、ナチの「鉤十時」を思わせるものが描き込まれ、さらに「ハイル・ヒットラー」と讃えているような腕の動作が描かれていたためである。
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ただ、この画の青年たちの活動はミュシャが重要視していたものであり、自分の娘や息子を作品内に描き込んでいる。
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第一次大戦が終結した1918年に、チェコスロバキアは独立国家として認められたが、その時ミュシャの《スラヴ叙事詩》は完成していなかった。
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チェコスロバキア独立の歓びは《スラヴ民族の賛歌》に描かれている。。
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残念だったのは、《スラブ叙事詩》の完成が、チェコスロバキア共和国の独立から8年間遅れてしまったことである。このため最初に約束された「スラヴ叙事詩 常設展示場」が未だ決まらぬ状態となっている。
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美術散歩 管理人 とら


歌川国芳 21世紀の絵画力 その3 府中市美術館

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第2章 21世紀の国芳~何が私たちの心をつかむのか

1.「綺麗なもの」と「かわいいもの」の復権

・団扇絵にみるデザインと情感
《花鳥風月 ふねで見る月》「花鳥風月」の「月」がテーマだが、夜の川での月見である。簾と舟縁の二つの直線が交差する構図が素晴らしい。

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・犬の愛おしさ
《当盛江戸鹿子 茅場町薬師》:じゃれつく犬に、思わず身を引く女性。犬は女性が手にする「ほおずき」が目当てなのだが。当時「ほおずき」は「十差」と呼ばれていたが、この画中の「ほおずき」も10個ある。
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・小熊と遊ぶ金太郎
《列猛伝 足柄金太郎》「列猛伝」シリーズには、ほかに宮本三四、近江おかねなど勇猛な人が登場する。

・おかしなもの
《道外化粧のたわむれ 花火》花火見物を描いた団扇絵だが、「両国くし」「はなび簪」「御すき油」などの化粧道具の世界としている。
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・金魚づくし
《金魚づくし いかだのり》手前は尾びれをまくり上げた二匹の金魚が漕ぐ経木の筏、その向こうは蛙が漕ぐ小舟、その向こうには盆栽のような中州に鶴が描かれている。

2.特撮ファンタスティック

・怪異のモチーフ
《大物之浦海底之図》壇の浦の戦いで果てた平家の武将たちが「霊」として海中に描かれている。「新中納言知盛公霊」・「平内左ェ門霊」・「源太夫判官季方霊」である。種々の魚・蛸・海老・蟹・貝や藤壺が書き込まれているが、特段に大きな「平家蟹」が連なって海面に浮上しつつある。

・《相馬の古内裏》再見。山東京伝による読本『忠義伝」に取材した作品で、源頼信の家老大宅光国と平将門の遺児で妖術を操る滝夜叉姫との対決の場面である。解剖学的にもかなり正確であるとの指摘もある生々しい骸骨が御簾を破って大きく半身を乗り出している。三枚続は、一図ずつでも構図が独立するように作画するのが通常であるが、その慣例をまったく意にとめない大胆さは国芳ならではの作品である。同様に三枚にわたって題材を大きく扱う構図法を取る作品には《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》《宮本武蔵と巨鯨》《鬼若丸と大緋鯉》が挙げられる。
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・嵐の海に現れた巨大魚
《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》再見。曲亭馬琴の小説「椿説弓張月」に取材した作品。平清盛討伐のため舟で都に向かう源為朝一行を嵐が襲う。妻の白縫が海神に身を捧げても嵐は収まらない。その時、かって為朝が仕えたことのある「讃岐院」の使者の「烏天狗」たちが現れて船を立て直した。一方、「ワニ鮫」は「舜天丸」を抱えて泳いでいた「紀平治」を背に乗せて見知らぬ島に送り届けた。

この画には「①身を投げた白縫、②自害を天狗に押し止められる為朝、③舜天丸を抱く紀平治を乗せたワニ鮫」という異なる三つの光景が描かれているのである。

・水を使った演出
《鬼若丸と大緋鯉》再見。岩の上で水中の巨大な緋鯉の激しい動きを見つめているのは鬼若丸。右側の女性は鬼若丸の伯母・飛鳥で、傍には「鰐口」という仏具が置かれている。これは寺院や神社に掛けられていて、参拝者が縄で打ち鳴らすものであるが、飛鳥がこれを鳴らして鯉を呼び出したのだろう。

・合戦に煙は欠かせない
《信州川中島武田の正兵西条山を引かえし雨宮のわたりをこへ越後方甘粕近江守と戦ふ図》川中島の戦いの一場面。上杉軍は妻女(画面では西条山)に陣を構え、武田軍は二手に分かれて、一方が山の後方から攻め、上杉軍が山を下りとところを本陣が待ち受ける作戦をとった。事前にこれを察した上杉軍はひそかに山を下り、「雨宮の渡りを超え」て、武田軍本陣を急襲した。山に回ってていた武田軍は、急ぎ「雨宮の渡りを超え」、本隊に加勢しようとしたが、上杉軍に阻まれた。

興奮する馬を引き留めて戦況を見守っている武将は上杉方の「甘粕近江守景持」(画中では景時)で、馬上で刀を振り上げている武将は「金津伊豆守」である。国芳が描いた画面は、甘粕近江守が見ているのと同じ光景である。

・写真のように作る風景
《八犬伝之内芳流閣》再見。曲亭馬琴「南総里見八犬伝」の一場面。「考」の玉を持つ犬塚信乃と「信」の玉を持つ犬飼現八が、まだお互いのことを知らずに戦う場面である。
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・同じ画家とは思えない
《頼朝公蔓ヶ岡の神前において静御前のまひを見給ふ図》鶴岡八幡宮における静御前の舞。遠くに頼朝の姿が見える。「遠近法」を心得ていた国芳の傑作である。
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・建物も構図も壊す
《和田合戦義秀惣門押破》主人公は和田義秀で、朝比奈三郎義秀の原形である。国芳はそれまでの《朝比奈門破り》の定型を破壊して、朝比奈の大袈裟な壊し振りを描いた。

・波に貼り付けた鯨
《宮本武蔵と巨鯨》再見。宮本武蔵が、鯨の背に乗って剣で一突きにしようとしている。

・江の島の裏へ回る
《相州江之島之図》左端に「稚児ヶ縁」その右に「岩屋」と書かれた奥の院が描かれているが、これらは三枚続の左の一枚に収められ、それより右は懸崖だけである。国芳のこの画は案内図でなく、島の意外な風景を見せるものだった。
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・深い闇の作り
《大物浦平家の亡霊》平家討伐後、都を追われて西国に逃げようとする義経主従を、摂津国・大物浦で待ち受けていた平家の亡霊が描かれている。

・あり得ない派手さとリアリティ
《長門国赤間の浦に於て源平大合戦平家一門悉く亡びる図》部分↓。平氏の豪華絢爛な船が、潮のうねりに任せて揺蕩っている。画面左で跳ぶのは義経の「八艘飛び」。「笹竜胆」の紋は源氏、「揚羽蝶」は平氏である。大きな船の中央に、安徳天皇を抱く二位の尼が見える。
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・画面いっぱいの水面
《摂州大物浦平家ノ怨霊顕るゝ図》前述の《大物浦平家の亡霊》にくらべ、船が立派で、武将や亡者の数が多くて、場面の壮大さと臨場感が増している。

・自然現象と抽象的な形
《周易八卦絵 雷雨》風神・雷神の内の雷神。「周易」は古代中国の占いの書物。「八卦」は占いに現れる八つの象のこと。八卦のうち「巽」が象徴するのは「風」で、「震」のほうは「雷」である。国芳の雷神は、火炎の太鼓を背負い、口を開いて叫んでいる。稲妻も描かれている。下の疾走する動物は「雷獣」である。
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3.ヘタウマの巧み

・みんなわらっているようだ
《白面笑壁のむだ書》再見。壁に描かれた役者の似顔絵。サインや芳桐印、版元印まで拙い手書き風である。「わらっているかを(顔)」・「なるほどめう(妙)だ」・「みんなわらっていりやうだ」などと書かれている。

4.猫が結ぶ国芳と現代人の心

・猫で遊び、猫に遊ばれる
《風流六花撰 百合》抱かれた猫は後ろ足をバタバタさせ、下の猫は飛びかかりそうな勢いである。百合の花が活けられている。
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・仕事の集大成
《其のまゝ地口 猫飼五十三疋》再見。東海道の宿駅の名前と猫の仕草を表す言葉を掛けた「地口」、すなわち駄洒落になっている。

・あやしさと紙一重の動物
《日本駄右ェ門猫之古箏》東海道「岡崎の宿」を舞台とした「猫石の精」である。真ん中の老猫が亡くなった女性に化けた「猫石の精」。その盆踊り唄に合わせて二匹の猫が立ち踊りするなど怪しい現象が次々と起こり、ついには大猫へと変身する。

・集団演技《猫の当字 たこ》再見。題の枠の蛸も、猫に負けじと主張している。蛸にむしゃぶりつく猫が面白い。「こ」は「古」の崩しである。
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・魅惑の猫世界
《流行猫の曲手まり》「扇子留め」・「八重桜」・「ゆび廻し」など「曲鞠」の猫版である。

【註】その1、その2、その3

美術散歩 管理人 とら

春風亭昇太師匠と三好粉引茶碗 @日曜美術館

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長い連休最終日の日曜美術館は「器のむこうに人がいる~茶の湯が生んだ至高の美~」だった。

以下が、番宣。信長、秀吉、家康…天下人をはじめ、多くの人たちを魅了してやまない茶わん。茶を飲む器が、なぜ人々を夢中にさせる? その秘密を名品と時代のつながりからひもときます!
茶の湯の名品をより楽しむコツは、時代によって果たした役割が違うことを意識すること。足利将軍時代、茶わんの名品といえば中国からもたらされた唐物。飾って目で味わいました。千利休が活躍した戦国時代、茶わんは一服の茶を飲んで心を研ぎ澄まし、自分を見つめるもの。古田織部が活躍した江戸時代の初めになると、笑いや面白さも求められました。それぞれの時代で大事にされた魅力を探りながら、名品を堪能します!
【ゲスト】MIHO MUSEUM館長・熊倉功夫、美術家・森万里子
【出演】春風亭昇太、文教大学教授・中村修也、根津美術館館長・根津公一、IT企業経営者・近藤俊太郎
【司会】井浦新、高橋美鈴自宅で茶道教室を開いている家内は、熱心にメモを取っている。

私は、気楽に見ていたが、そのうちに落語家の春風亭昇太師匠が登場した。

彼の好みの茶碗「三好粉引」は、私の好みでもある。釉薬が掛かっていない場所が、剣を交叉しているように見える。

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番組内で、春風亭昇太師匠が「三好長慶の飯盛城址」へ登りだしたので、すっかり目が覚めてTV画面に見入った。

大阪府大東市にある「河内飯盛城址」は、大阪府最大級の戦国時代の山城で、戦国大名・三好長慶の居城だった。
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正確に言えばこの城は、織田信長以前に畿内を中心として広大な範囲を支配していた「三好政権」の首都だったのである。ちなみに、三好長慶政権が皇室(正親町天皇)から認められていたことは、(↑)の肖像画で長慶が桐紋付きの正装であることで分かる。

三好一族は、三好政長・三好長慶・三好義賢・安宅冬康・三好康長・松永弾正久秀らで、「佗茶」を実現した武野紹鷗(1502-55)に師事した。

三好長慶が愛用した「三好」の名を冠する高麗粉引茶碗の「粉引」とは、白い粉が吹き出したように見えることによる。鉄分の多い黒褐色、砂混じりの淡褐色の素地に白泥をずぶ掛けし、全面に白化粧した上に薄く透明の釉薬を掛けたもので、李朝初期から中期に全羅南道で焼かれたという。

「応仁の乱」から戦国乱世にかけて8代足利将軍義政が収集していた「東山御物」は戦国大名家に流出したが、その多くを京畿を支配していた三好一族や堺の会合衆が手にした。三好長慶の父・元長は1527年から5年間「堺政権」ないし「堺幕府」を樹立していた。それらが織田信長の「名物狩り」で信長の手に渡り、天下支配の権威として利用された。河内飯盛城想像鳥瞰図(山本書院グラフィックスより)
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2016年2月28(日)その飯盛城のある大東市民会館キラリエホールで、「昇太師匠と中井教授の飯盛城 落語と城トーク」が開催され、城の関連書籍なども執筆されるほどの大の城好きの人気落語家 春風亭昇太師匠も参加されたとのことである。
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美術散歩 管理人 とら

【追記】「茶の湯の歴史」は東博のジュニア・ガイドによく書けている。その概要は以下のようである。

・鎌倉時代のはじめ:中国から伝わったお茶は薬として飲まれていた。将軍・源実朝が二日酔いになった時、禅僧・栄西(1141-1215)が茶を勧めた。

・鎌倉時代のおわり:禅宗寺院では儀式としてお茶を飲み、武士たちはステイタスとしてお茶の産地を当てる「闘茶」などを楽しんだ。

・室町時代①:室町幕府の将軍は茶の湯に親しみ、中国から最高級の美術品を取り寄せて室内を飾り、お茶を楽しんだ。特に足利義政(1436-1490)は高級美術品コレクションを有していた。

・室町時代②:京都を中心に有力な商人たちの間で、中国の高級な美術品ではなく、身近にある日常のうつわをとりいれた「侘茶」が誕生した。珠光(1423-1502)曰く「シンプル・イズ・ベスト」

・安土桃山時代①:織田信長や豊臣秀吉らの武将たちは、茶湯道具を戦で手柄を立てた家臣への褒美に用いた。武士にとって茶湯道具は財力と権力の象徴でもあった。

・安土桃山時代②:堺の商人・千利休は自分好みの道具を作りだし、「侘茶」の新しいスタイルを生み出した。千利休(1522-1591)曰く「花は野にあるように」

・江戸時代:初期には、大名たちのための新しいスタイルの茶の湯を広めた古田織部や小堀遠州、後期には茶湯道具コレクションが後の時代に影響を与えた松平不昧などの大名茶人がいた。松平不昧(1751-1818)曰く「客の心になって亭主をせよ」

・明治時代:藤田香雪・益田鈍翁らの実業家たちは、かって大名が持っていた茶湯道具を集め、伝統を重んじつつ、新しい時代の茶の湯を作り上げた。益田鈍翁(1848 -1938)曰く「楽しんでこそ、上手なれ」

益田鈍翁の茶室が東博に寄付され「応挙館」として活用されているが、ここでお茶を頂いたことがある(参照)。

円山応挙の襖絵のある応挙館の茶室は、御殿山にあった時に益田鈍翁が「三十六歌仙佐竹本」を切断してしまったという曰くつきの部屋である。

床の間の画は松が主体で竹と岩もあった。花は蕾の桜・シャガ・椿、次の間の画は鴨が主体で葦もある。
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季節の花 @自宅の庭 2017/5/8

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季節の花 自宅の庭での定点観測 @2017/5/8

雪の下

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芝桜
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馬酔木
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紫陽花
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小手鞠
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鉄線
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紫蘭
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美術散歩 管理人 とら

今までのエルミタージュ美術館展

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現在、六本木の森アーツセンターギャラリーで「大エルミタージュ美術館展」が開かれている。

今までに何回も(大)エルミタージュ美術館展を見ており、今回のフライヤーに載っている作品もほとんどが鑑賞済みのような気がする。

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【フライヤー内面】・ティツィアーノ《羽飾りのある帽子をかぶった若い女性の肖像》
・スルバラン《聖母マリアの少女時代》
・エリクセン《戴冠式のローブを着たエカテリーナ2世の肖像》
・バトーに《聖家族》
・クラーナハ《林檎の木の下の聖母子》
・フラゴナールとジェラール《盗まれた接吻》
・ハルス《手袋を持つ男の肖像》
・レンブラント《運命を悟るハマン》一方、今までに見た(大)エルミタージュ美術館展を整理すると次のようである。

【エルミタージュ美術館展】

・東武美術館1(1992) 17世紀オランダ・フランドル絵画 HP
・東武美術館2(1993) イタリアルネサンス HP
・東武美術館3(1994) フランス バロック・ロココ絵画 HP
・東武美術館4(1995) 19∸20世紀フランス絵画 HP
・東武美術館5(1996) 16∸10世紀スペイン絵画 HP
・東京江戸博物館 (2004) HP

【大エルミタージュ美術館展】

・東京都美術館(2006) HP
・国立新美術館(2012) BL

以上のブログ(BL)やホームページ(HP)の記事を読み直してみたが、東武美術館5-1996(16∸10世紀スペイン絵画)のホームページ(HP)に、「スルバランの《聖母マリアの少女時代》(↓)の輝く瞳が忘れがたい」という記述があるだけだった。
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東武美術館での5回の展覧会については図録が残っているはずなので、時間があればチェックしてみたい。

美術散歩 管理人 とら

新玉ねぎサラダ 2017年5月

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近所から、おすそ分けとして巨大な「新玉ねぎ」を頂戴した。鹿児島産・無農薬栽培・サラダ玉ねぎで、その「新玉ねぎの旬」は4月~5月とのことでである。

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早速、甘鯛と一緒に煮てみると、「新玉ねぎ」の甘さととろ感が絶妙であった。また、鮭と一緒にホイル焼きにすると、「新玉ねぎ」のシャキシャキ感が残っていた。

そこで、新玉ねぎの最良のレシピを求めて、ネットで研究してみた。

1.「新玉ねぎ」と「普通玉ねぎ」の違い: 一般的な玉ねぎは、日持ちを良くするために収穫してから1月ほど乾燥させて出荷したものだが、「新玉ねぎ」は収穫後にすぐに(大体2~8日後に)出荷されている。

2. 「新玉ねぎ」の季節:「新玉ねぎ」の収穫時期には春・秋どちらもある。「新玉ねぎ」とは、収穫してからすぐに出荷されたものをいうので、春蒔きの玉ねぎは秋に収穫されるので秋の収穫後すぐに出荷されたものは「新玉ねぎ」、秋蒔きのものは春に出荷されるので、春の収穫後すぐに出荷されたのものが「新玉ねぎ」と云うことになる。

3. 「新玉ねぎ」の甘味:皮が茶色い「普通玉ねぎ」は、収穫後コンテナなどに入れて、一定期間、乾燥させてから出荷される。一方「新玉ねぎ」は乾燥させずに出荷するため、水分量が多い状態で出荷される。水分が多いために、辛みを感じにくく、甘いと感じる人が多い。

4.「玉ねぎの品種」との関係:国内に流通しているものだけでも相当数の品種があるが、その原種がどちらの系統かによって、「辛い玉ねぎ」と「甘い玉ねぎ」に分かれる。

日本では、秋収穫の長期保存される玉ねぎには、辛い玉ねぎの品種が使われていて、春収穫の玉ねぎの中でも、早生・極早生といわれる種まきから収穫までが短期間のものに甘い品種が使われている。そのため、「新玉ねぎは甘い」と思う人が多い。実際には「新玉ねぎ」の中にも甘くないものもあるので買う時には、良く見てから買う必要がある。

玉ねぎには、皮の色や大きさにより「黄玉ねぎ」・「白玉ねぎ」・「赤玉ねぎ」・「小玉ねぎ」など種類が多いが、「新玉ねぎ」は「黄玉ねぎ」や「白玉ねぎ」を早取りしてすぐに出荷したものであり、甘い品種の玉ねぎの場合には「サラダ玉ねぎ」・「白玉ねぎ」と書いてあることが多いとのことである。

5.「新玉ねぎ」の保存方法:春から初夏にかけて出回る「新玉ねぎ」は、水分量が多いので長期保存には向かない。沢山あるときは、早めに調理する必要がある。

6.「新玉ねぎ」の調理法:「一般的な玉ねぎ」は、辛みが強いので加熱して甘みを引き出す調理法が向いているのに対し、「新玉ねぎ」は生食でも甘みがあるので「サラダ向き」である。

このように研究した後に準備したのが、(↓)の「新玉ねぎサラダ」である。
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食べてみると、「新玉ねぎ」が持つ「強いシャキシャキ感」と「軽いさわやかな辛味」で、パンチが効いて風格の高いサラダとなっていた。

美術散歩 管理人 とら

大エルミタ―ジュ美術館展 @森アーツセンターギャラリー

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展覧会の英文名は"Old Masters from Hermitage Museum"で、「隠れ家」というエルミタージュ美術館に「大」という形容詞が付いているのは違和感を感じるが、この展覧会の特別協賛が「大」和ハウス工業であることと関係付けるのは穿ち過ぎというものだろう。

ブログに書いたように、十分な予習をしていったので、85点の出展作品を1時間ほどで見おわり、帰宅して昼食を摂った。

春休みや大型連休も過ぎて、この展覧会(会期:3月18日―6月18日)も終盤となっているためか、場内は空いていた。

暖かい良い日だった。見終わってから、外の写真を撮ると、見事な快晴である。
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展覧会の構成は、以下のようである。プロローグ
1.イタリア:ルネサンスからバロックへ
2.オランダ:市民絵画の黄金時代
3.フランドル:バロック的豊穣の時代
4.スペイン:神と聖人の世紀
5.フランス:古典主義的バロックからロココへ
6.ドイツ・イギリス:美術大国の狭間で以前に見た作品も少なくなく、お気に入り作品も多いが、ここでは私の「エルミタージュ10選」を制作年代順に挙げることとする。

#1 クラーナハ《林檎の木の下の聖母子》1530年頃
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聖母の切れ長の目、ややとがった顎、長く美しいブロンドの髪などは、画家の他の聖母にも見られる特徴である。こちらを見ている幼いキリストはリンゴとパン切れをつかんでいるが、パンはキリストが「最後の晩餐」で自らの身体と見た「聖体」であり、リンゴとともにキリストによる救済のシンボルである。

#2 ティッィアーノ《羽飾りのある帽子をかぶった若い女性の肖像》1538年
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モデルの顔立ちは有名な《ウルビーノのヴィーナス》(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)のそれに近く、かつてはティツィアーノの恋人を描いたのではともいわれた作品。白いダチョウの羽飾りのついた帽はボーイッシュな印象で、彼女はここで男性用の帽子を借りて男装を楽しんでいるとの説もある。

#3 ハルス《手袋を持つ男の肖像》1640年頃
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17世紀のオランダ絵画は「黄金時代」と呼ぶにふさわしく、肖像画、静物画など絵画ジャンルの専門化が進んだ。オランダでレンブラントに引けを取らない人気を博したのが、フランス・ハルスである。ここでは富裕な男性市民の誇りと自信に満ちた表情を見事にとらえている。

#4 カルロ・ドルチ《聖チェチリア》1640年代後半
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聖チェチリアは、古代ローマの貴族の娘で、キリスト教信仰に身を捧げて殉教死した。音楽の守護聖人であり、しばしばオルガンの側にいる姿で描かれる。エルミタージュのこの作品は、ドレスデンの作品を幾分変更したバリエーションである。

#5 ルイ・ル・ナン《祖母訪問》1645∸48年
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祖母訪問という題名は、この画の主題と一致していない。実際には、子供の楽師と歌い手がわずかな金を稼ぐために農家を訪ね回るというフランス農村のありふれた状景が描かれている。ルイ・ル・ナンは、アントワーヌ、ルイ、マテューの「ル・ナン兄弟」の次兄。

#6 シャンパーニュ《預言者モーゼ》1648∸63年
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モーゼに導かれたイスラエルの人たちは、エジプトの地を出てから3日目にシナイの荒野に入り、シナイ山の前に宿営した。神はこの山からモーゼとイスラエルの民に語りかけ、十戒を授けた。本作品のモーゼは十戒を記した石板を手にしている。石板の向かって左側には神と人間の関係を規定した3つの戒めを、右側には人間の礼儀作法に関する7つの戒めを記している。

#7 スルバラン《聖母マリアの少女時代》1660年頃
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スルバランは宗教画家として活躍したスペインの画家であり、徹底したリアリズムとカラヴァッジョ風の劇的な明暗表現による峻厳な聖人や修道僧の絵でよく知られる。それだけにこの作品に描かれる愛らしくも敬虔な幼いマリア像は、この画家としては異例ともいうべきものである。襟と袖口の優雅な模様や手芸用の細い糸が見事に描かれている。

#8 ムリーリョ《受胎告知》1660年頃
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大勢の天使や光を放つ鳩が飛ぶ雲の下で、大天使ガブリエルはマリアに話しかけ、マリアはそれを理解している。大天使が持つ百合の花はすでに祈祷用の小卓の上にある。

#9 デ・ホーホ《女主人とバケツを持つ女中》1661-63年頃
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フェルメールに並び室内画、風俗画で有名なデ・ホーホによる戸外での日常生活のひとコマを描いた作品。心のどかな午後のひととき、画面中央に座る女主人と、今夜の食卓に乗せる魚を見せる女中が描かれている。巧みな遠近表現がなされている点もデ・ホーホらしい。

#10 レンブラント《運命を悟るハマン》1660年代前半
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ハマンはペルシャ王クセルクセスの右腕だったが、ユダヤ人嫌いで、王妃エステルがユダヤ人だったことから王の不興をかい、極刑を科される。前面にいるのが自分の運命を悟り、観念したハマン、後方には彼を見送るかのようなクセルクセスと別の部下が描かれている。

#次点 シャルダン《食前の祈り》1744年》
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食事を前に手を合わせる妹と、すでに祈りを済ませた姉、それを優しく見つめる母親という一般的な市民家庭の日常のひとコマを描いた作品。整理整頓された清潔な室内も彼女が良き母、妻であることを物語る。ルーヴル美術館にほぼこれと同じ絵があるが、床に置いた卵料理のフライパンはルーヴルの絵にはない。他にも同名の作品があるが、本例では向かって右下隅に年記と署名が入っている。

美術散歩 管理人 とら

柑橘類あれこれ 清見 &美生柑

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2017/03/18 - わたしは柑橘類が大好きである。これに関して書いたブログ記事もすでに4本を数える。・「 熊本県玉名市天水町の早生みかん」⇒① 

・「2種類の果汁100%ジュース」⇒②
 
・「柑橘類はわたしの友だち」 ⇒③ 

・「柑橘類ストレートジュース vs 新鮮果実」⇒④今回は、最近口にした二種類の柑橘類、「清見」 & 「美生柑」について書くこととする。食べてみると、両者ともに「非常にジューシー」であるが、「清見」では「強い甘さ」、「美生柑」では「さわやかな酸味」が印象的だった。

A. 清見(きよみ)ミカン科ミカン属タンゴール類

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「清見」は「清見オレンジ」とも呼ばれ、静岡県静岡市清見区にある果樹試験場(現在の果樹研究所カンキツ研究興津拠点)で、「宮内早生温州」と「トロビタオレンジ(みやがわわせ×トロビタオレンジ)」を交配して作られた国内初のタンゴール類の品種で、1979年6月に育成地近くの海岸、清見潟にちなんで命名登録された。

「清見」の果実は200~250g前後で、黄橙色。皮はオレンジよりは剥きやすいと言う程度。果肉は種が少なく柔らかでとてもジューシー。そのため、ナイフを使い、食べやすいようにクシ切りにして食べる方がいい。
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味は温州みかんの味に、オレンジの香りといったところ。平成22年産の生産量を見ると、愛媛県が45%と和歌山県が32%とこの両県で全国の77%も占め、次いで佐賀県や広島県などが続く。

「清見」の収穫はハウス物が1月頃から始まり、3月初旬ごろには路地物も始まる。収穫は4月初旬辺りまでだが、定温貯蔵されるものもあるので出回るのは5月頃まで続く。最も沢山出回り、味も美味しい食べ頃の旬は2月中旬あたりから4月上旬頃で、ハウス物より露地物の方が概して味が濃く、果汁も豊富だと言われている。

この「清見」をもとに「不知火(デコポン)」が生まれたのであるが、「清見」を「育種親」とする品種には、以下のように多種類がある。「シラヌヒ」-「清見」×「ポンカン」
「清峰」-「清見」×「ミネオラ」
「南風」-「清見」×「フェアチャイルド」
「津之香」-「清見」×「興津早生」
「春峰」-「清見」×「水晶文旦」
「キヨマー」-「清見」×「マーコット」
「天草」-「清見」×「興津早生」×「ページ」
「清の香」-「清見」×「キノー」
「陽香」-「清見」×「中野3号ポンカン」
「佐藤の香」-「清見」×「マーコット」
「朱見」-「清見」×「セミノール」
「はるみ」-「清見」×「ポンカンF-2432」
「あまか」-「清見」×「アンコール」
「西之香」-「清見」×「トロビタオレンジ」
「師恩の恵」-「清見」×「ミネオラ」
「せとか」-「清見」×「アンコール」×「マーコット」
「せとみ」-「清見」×「吉浦ポンカン」
「はれひめ」-「清見」×「オセオラ」×「宮川早生」
「広島果研11号」-「清見」×「サザンレッド」
「麗紅」-「清見」×「アンコール」×「マーコット」
「たまみ」-「清見」×「ウイルキング」
「かんきつ中間母本農8号」-「清見」×「H・FD-1」
「あまぽん」-「清見」×「早香」
「媛小春」-「清見」×「黄金柑」
「果のしずく」-「清見」×「早香」
「みえ紀南4号」-「清見」×「春光柑」B. 美生柑(みしょうかん)ミカン科ミカン属文旦類
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「美生柑」は、産地によって「河内晩柑」、「愛南ゴールド」、「宇和ゴールド」、「ハーブ柑」、「天草晩柑」、「ジューシーフルーツ」、「ジューシーオレンジ」、「灘オレンジ」、「夏文旦」などと呼ばれている。

これは、大正時代に熊本県河内町の西村徳三郎氏の庭で発見された柑橘で、起源は明らかではないが「文旦」の血を受け継いでいると考えられている。

果皮が黄色くなめらかで、果肉は多汁でやわらかくソフトな口当たり。さわやかな香りを持ち、ジューシーで上品な甘酸っぱさが味わえる。果重は250~450gくらいと比較的大きめ。風味と外観がグレープフルーツに似ていることから「和製グレープフルーツ」ともいわれるが、グレープフルーツのような苦味はなく、酸味も強くない。

晩生で越冬する必要があるために、ハウス栽培や冬期も一定以上の気温でほとんど降霜することのない地域で栽培される。日本における収穫量は、2010年が8,822 トンで、その内訳は愛媛県63%、熊本県35%である。

生産地は、愛媛県愛南町や熊本県天草市などの少数しかないが、愛南町が生産量の約半数を占める日本一の産地である。

「美生柑」という名称は愛南町の前身の一つである御荘町(みしょうちょう)に由来する。ただし、愛南町では2007年から「愛南ゴールド」という呼称を総称として用いている。

C. 柑橘類の分類

【オレンジ類】オレンジ・ネーブル
【グレープフルーツ類】グレープフルーツ・オロブランコ
【みかん類】温州みかん・ぽんかん
【文旦類】文旦・水晶文旦・夏みかん・甘夏・八朔・晩白柚・美生柑
【レモン類】レモン
【香酸柑橘類】柚子・スダチ・ライム
【タンゴール】清見・伊予柑・デコポンなど「みかん・オレンジ交雑種」
【タンジェロ】ミネオラ・セミノールなどの「交雑種」

美術散歩 管理人 とら


飛鳥美人 謎の暗号を解け 高松塚古墳の秘密 @歴史秘話ヒストリア

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これは2017年5月12日 20:00~20:43 にNHK総合で放映された「歴史秘話ヒストリア:飛鳥美人∸謎の暗号を解けー高松塚古墳の秘密」のメモである。

これは、2014年11月20日に NHK BSプレミアムで放送されたキトラ古墳に関する「飛鳥の大宇宙 ~キトラに眠るのは誰だ」とも関連している。

この歴史秘話ヒストリアの番宣は以下のようである。今から45年前、考古学史上最大の発見とたたえられた高松塚古墳の壁画。極彩色で描かれていたのは16人の男女の群像だったが10年に及ぶ修復の結果、その姿が鮮明によみがえりつつある。浮かび上がったのは新たな謎。飛鳥美人は何を見つめているのか?壁画の人々は一体何をしているのか?そして被葬者の正体は?最新のデジタル技術で1300年前の壁画を完全再現。国宝壁画に秘められた暗号の解読に挑む古代史ミステリー! 【出演】堀内正美,【キャスター】井上あさひ 私は高松塚壁画やキトラ壁画に興味を抱いて、以下のように多数の記事を書いてきた。 

・高松塚壁画の保存事故 2004年6月20日
・キトラ壁画の修復・保存の責任 2004年7月3日
・キトラ壁画の手術 2004年7月7日
・高松塚壁画の保存 2004年7月8日
・キトラ壁画の保存責任 2004年7月31日
・高松塚の壁画破壊の責任 2004年8月11日
・高松塚・キトラの壁画破壊責任の追求 2004年9月20日
・高松塚・キトラの壁画の緊急手術 2004年9月26日
・高松塚・キトラ壁画の手術治療ー石室開封 2004年11月22日
・高松塚・キトラ壁画の保存を文化庁に任せてよいのか 2005年5月13日
・・キトラ壁画もピンチ‐外国の専門家の応援が必要 2005年9月16日
・飛鳥美人の泣きぼくろ 2006年2月4日
・キトラ古墳の白虎の特別公開 2006年5月11日
・高松塚古墳壁画事故調査委員会と関係者処分 2006年6月22日
・高松塚古墳事故の調査・謝罪・処分 2006年-6月22日
・飛鳥美人の取り外し@高松塚古墳 2007年05月12日
・飛鳥の大宇宙 ~キトラに眠るのは誰だ@NHK BSプレミアム 2014年11月20日

【参考文献】
『万葉乃衣食住』(飛鳥資料館 図録)
『国宝 高松塚古墳壁画』(文化庁)
『高松塚とキトラ 古墳壁画の謎』(来村多加史)
『国宝 よみがえる色彩』(小林泰三)

CODE 1 飛鳥美人はなぜこちらを見ている?

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小林泰三さんが、1300年前の高松塚古墳壁画のデジタル復元に挑んだ。小林さんは、高松塚古墳壁画の中に「カメラ目線の女性」がいることに着目する。
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文化庁古墳壁画室調査官・宇田川滋正さんは、壁画の極彩色復元に取り組んだ。
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修復前・修復中の壁画
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「カメラ目線の女」のいる極彩色復元画像。
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朱色の上着は、ひょっとしたらかなり身分の高い人が着ているのかもしれない。手がかりは衣服の色の可能性がある。
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古代の服制の変遷は、(↓図)や(↓↓図)のようで、16人の人物群像の色彩を復元してみると、天武朝と平城京の間の高松塚壁画に描かれている人物では、女性が身分が高く、なかんずく赤い上着を着ている女性が一番高位であると推定された。
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復元された1300年前の高松塚石室。
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復元された石室内部。
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天井の星座。
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骨や歯から推測すると 被葬者は40~60代の男性と推定される。
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CODE 1 BROKEN:石室に人物を配置してみると「カメラ目線の女性」が見つめていたのは「被葬者」で、この飛鳥美人は被葬者と特別の関係だったと思われる。
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CODE 2 飛鳥美人はどこへ行く?
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女性のスカートから人物の動く方向が分かるので、これを基に人物群像を調べると、石室の外へ被葬者を誘うような動きが表現されていた。猪熊兼勝名誉教授曰く「暗い墓室の死者に対し外の空気を吸わないかとと伝えた」
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持ち物から、野外での遊び「打毬」ではなかったかという仮説が立てられる。
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16人の男女は、床几・孫の手・蠅叩きを持った被葬者に仕える人物たちだったことも明らかになった。
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CODE 3 被葬者は誰か? 緑の蓋のヒミツ
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被葬者の正体に迫るヒントが壁画に残されていた。それは緑色の蓋(かさ)。猪熊兼勝・京都橘大学名誉教授曰く「養老令には縁の蓋は一位だと書いてある」
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ここには「一位の縁の蓋は深縁で、てっぺんと四隅を錦で覆い、房を垂らす」と記されている。
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すなわち、その色から「一位」という極めて高い位の人物のものだったと推定される。
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この壁画が描かれた時代、一位の位にあった人物は絞られる。被葬者がその人物だとすれば、壁画は壮大な古代の儀式を、スケッチするように記録したものだった可能性がある。

高松塚古墳から出てきた土器の破片は、年代測定によって「8世紀初めの10年の間」に作られたものであることが分かった。

これは藤原京 694(持統8年)~710(和銅3年)までの16年間に相当する。

被葬者として、この時代の太政大臣くらいの人物を探すと、キトラ古墳では高市皇子(696没)と高松塚古墳では忍壁皇子(705年没)が考えられる。

猪熊兼勝名誉教授曰く「高市皇子や忍壁皇子は皇子だからこそ四神に囲まれた壁画古墳に葬むられたのだろう」
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660(唐 : 顕慶5年)唐・新羅同盟軍が百済を滅ぼした。
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663(天智2年)「白村江の戦い」で、百済・倭国連合軍は唐・新羅同盟軍に敗れた。
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681(天武10年)日本書紀・続日本紀などの歴史書編纂開始。
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701(大宝元年)大宝律令制定。
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大宝元年:続日本紀「文物の儀 ここに備われり」
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大宝元年:朝賀
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朝賀に於ける女子の持ち物は「圓翳・如意・蠅拂」、男子の持ち物は「太刀・屏繖・桙・杖」である。
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猪熊兼勝名誉教授曰く「忍壁皇子が葬られている高松塚古墳に、儀式がそのままの姿で描かれた」
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海獣葡萄鏡:高松塚出土 vs 長安出土。高松塚古墳で出土した海獣葡萄鏡が698年に亡くなった唐の高官の墓から出土したものと同じ窯で焼かれたものと判明したため、高松塚古墳の鏡は704年の遣唐使によって持ち帰られたものであるということから、高松塚古墳の被葬者としては705年に逝去した忍壁皇子が有力になっている。
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702(大宝2年) 遣唐使派遣。
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704(慶雲元年)遣唐使帰国: 鏡は遣唐使の上司である忍壁王子に渡った。
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猪熊兼勝名誉教授曰く「翌705年に忍壁皇子は亡くなっているので、記念すべき鏡を墓に副葬した」
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2008年7月、藤原京の発掘調査で、幡を立てる7本の柱跡が見つかった。左は、太陽・青龍・朱雀の幡、右は、月・玄武・白虎、頂に、烏形幡(樹烏形幢。左日像青龍朱雀幡、右月像玄武白虎幡)である。
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カラス形の幡は、おそらく天照大神を もしくは天照大神を皇祖神とする天王を象徴するものと考えられる。
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藤原京大極殿、天武・持統天皇陵、中尾山古墳、高松塚古墳、キトラ古墳は近接しているが、40キロ離れた紀州熊野新宮大社にもカラスの幡がある。
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美術散歩 管理人 とら

奈良 西大寺展 @三井記念美術館

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この「創建1250年記念特別展」の副題は「創建1250年記念叡尊と一門の名宝」である。

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西大寺は、奈良時代の後期に、女帝孝謙上皇(後に称徳天皇)によって発願され、平城京の東大寺に相対する位置に建立された西の大寺である。平安時代には疲弊するが、鎌倉時代の中頃に叡尊(興正菩薩)という高僧が、密教と戒律を柱とする宗教活動さらには社会事業を広く展開して、その一門は大きく発展した。

この展覧会の見どころは、次の3点である。
① 奈良の地に継承された仏師、絵仏師、金工の工人達の高い技術が存分に発揮された名品が多数展示されている。

② 肖像、仏像の体内に叡尊の宗教理念に結びつく品々が多数納入されていて、像を真の仏として造っている。

③ それらの像が、叡尊に帰依した多くの人の文字通り力を合わせる「合力」によって造立されている。すなわち、美術的に優れた仏像、肖像、仏画、舎利塔や密教法具などの名品を鑑賞するとともに、仏教美術の奥深さに引き込まれる展覧会といえる。

展覧会の構成と主要展示品は次の通り。

展示室1:密教と修法具

・《黒漆光明真言厨子》西大寺:光明真言の墨書が納められた宮殿型厨子で、光明真言会で本堂須弥壇上に安置される。
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展示室2:戒律と舎利信仰

・国宝《金銅透彫舎利容器》西大寺:宮殿型の厨子内に舎利容器が納められている。火焔宝珠を戴き、龍や宝相華などをモチーフとした透彫の羽目板が華麗な舎利容器の傑作。
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展示室3-1:西大寺の瓦と塼

展示室3-2:大茶盛式の大茶碗:西大寺の大茶盛式は、延応元年(1239)より受け継がれてきた伝統行事。叡尊が八幡神社に献茶をした余服を参拝者に振る舞った事に由来し、現在は毎年2回、4月第2日曜日とその前日、10月第2日曜日に開催される。【参照】
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展示室4-1:西大寺の創建から平安時代まで

・国宝《金光明最勝王経 巻1》西大寺:天平宝字6年(762)2月8日に宮廷の女官である百済の豊虫が両親の追善のために発願した、写経21巻のうち現存する『金光明最勝王経』1部10巻で、本展前期では巻1が展示されていた。平安時代の訓読点や注記が残る貴重な資料。
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・重文《塔本四仏坐像のうち釈迦如来坐像》西大寺(↓)
・重文《塔本四仏坐像のうち阿弥陀如来坐像》西大寺(↓↓)
西大寺には創建後間もなく東塔・西塔の2基の塔が建てられた。この4軀の如来坐像は、そのいずれかの塔の初層(1階)に安置された。奈良時代後期を中心に流行する木心乾漆の技法により制作。西大寺創建に近い時期までさかのぼり、4軀まとまって伝わる貴重な仏像。各像の名称は後世のもの。
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・国宝《十二天像のうち帝釈天像》西大寺(↓)
・国宝《十二天像のうち火天像》西大寺(↓↓)
十二天像は密教の修法道場を守護する護法神。1幅に1尊ずつ脇侍とともに画面いっぱいに描かれている。この画像の当初の伝来は不明だが、おおらかな趣をたたえ、制作は9世紀までさかのぼると考えられる。十二天画像としては、現存最古の作例であり、12幅完存していることも非常に貴重。※会期中、5月14日(日)までは「帝釈天像」「火天像」を展示し、後期5月16日(火)からは「閻魔天像」「水天像」に展示替え。
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展示室4-2:叡尊の信仰と鎌倉時代の復興

・国宝《興正菩薩坐像》善円作 西大寺:荒廃した西大寺を鎌倉時代に再興した、叡尊80歳の寿像。像内の墨書銘により、弘安3年(1280)に仏師善春によって造立されたことが判明し、像内には多種多様の納入品が納められている。肖像彫刻の中でも傑出した出来栄えで、昨年新たに国宝に指定された。
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・重文《愛染明王坐像》善円作・西大寺:西大寺愛染堂に祀られる秘仏本尊で、当初の彩色や截金文様が鮮やかに残っている。宝治元年(1247)に叡尊が願主、弟子範恩が檀越となり、西大寺における三宝久住を祈願し、仏師善円によって造立された。前期のみの展示なので、本日限りだった。

寺伝によると、弘安四年(1281)の「弘安の役」の際、叡尊は源氏の守り神の石清水八幡宮で、十万余騎の蒙古軍の兵船について「東風をもって本国に吹き送り、乗る人損なわずして、乗るところの船を焼失せしめたまえ」と願って渾身の祈祷を行った。その結願の夜に、宝殿の扉が開き、明王の持つ鏑矢が妙音を発して西方に飛び、暴風を起こして蒙古船を沈没させたと伝えられる。いわゆる「神風伝説」である。
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・重文《文殊菩薩坐像》 西大寺:中国五台山の文殊信仰に基づいた文殊五尊像(↓↓)のうち、文殊菩薩・善財童子・最勝老人の3軀のみの展示である。叡尊没後3年後の永仁元年(1293)に弟子たちが発願し、叡尊の13回忌にあたる正安4年(1302)に完成した。文殊菩薩は叡尊が信仰した尊格の一つで、叡尊は文殊信仰に基づいて多くの慈善事業を行った。
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・重文《大黒天立像》善春作 西大寺:烏帽子を被り、狩衣を着け、左肩に大袋を背負って立つ大黒天像。下ぶくれの福々しい顔立ちと肥満した体躯、丸みのある手足など、福神らしい親しみやすい姿が堅実な彫技で表されている。像内には多数の納入品が納められていた。 
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・重文《聖徳太子立像(孝養像)》善春作 元興寺:聖徳太子が16歳のとき父・用明天皇の病気平癒を祈る姿を表している。叡尊は聖徳太子を救世観音あるいは如意輪観音の化身として篤く信仰していた。この像は文永5年(1268)5千名近い人々が結縁して、仏師善春らにより造立されたもの。結縁者の中には叡尊の弟子も多く、叡尊による太子信仰の広まりを物語っている。
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展示室5:戒律と舎利信仰

・重文《金銅火焔宝珠形舎利容器》西大寺:台座に豪華な装飾が施された金銅製の火焔宝珠形舎利容器。叡尊が伊勢において感得した舎利を納めていると伝えられている。
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展示室6:西大寺の伽藍配置

展示室7-1:真言律宗ー山の名宝

・重文《普賢菩薩騎象像》岩船寺:六牙の白象に乗り、胸前で合掌する普賢菩薩像で、その姿は「法華経」普賢菩薩勧発品などの諸説に基づく。華奢な体つき、柔和な表情など品のある落ち着いた佇まい。
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・重文《太山王坐像》康円作 白毫寺:太山王は冥界で死者を裁く十王の一人です。体内墨書銘により、正元元年(1259)に仏師康円によって造像されたことが明らか。どっしりと安定感に富み、威厳が漂う作風で、仏師康円の力量が遺憾なく発揮されている。
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展示室7-2:忍性と東国の真言律宗

・重文《釈迦如来立像》院保他筆 称名寺:京都・清凉寺の本尊を模刻した、清凉寺式釈迦像。清凉寺式釈迦像は、主に中世の真言律宗によって全国に広められた。体内銘により、徳治3年(1308)に院保をはじめとする院派仏師により造像されたことが判明。
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美術散歩 管理人 とら

レトルト・カレー 味くらべ

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レトルト・カレーは便利で、よく食べるが、その美味さの程度、辛さの程度、肉入りの程度は種類によって相当に違う。

辛さについては、わたしや家内は甘口が好きだが、甘口・辛口・激辛などの記載がないものでは食べてみなければわからない。

それでは、レトルト・カレーの味くらべを始めよう。

【エントリー】
#01 S&Bおいしいカレー甘口

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#02 成城石井 ビーフカリー
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#03 横須賀海軍カレー
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【結果】
#01 美味さ=B 辛さ=A 肉入り=B
#02 美味さ=B 辛さ=C 肉入り=B
#03 美味さ=A 辛さ=A 肉入り=A

美術散歩 管理人 とら

映画「ダ・ヴィンチ・コード」@NHK BS プレミアム

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5月15日に、映画「ダ・ヴィンチ・コード」を「NHK BS プレミアム」で見た。

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この映画を見るのは3回目で、前2回のブログ記事は(↓と↓↓)である。

・映画「ダ・ヴィンチ・コード」@日劇PLEX3  2006-05⇒ブログ

・映画「ダ・ヴィンチ・コード」@フジテレビ・金曜プレミアム  2016-10⇒ブログ

前者では、下記のコメントが面白い。
最後のシーンは、ラングドン教授すなわちトム・ハンクスがパリに戻って、髭を剃っているうちに、急にあることに気づいて、ルーブル美術館に駆けつけたところである。原作を読んだ時にはこの点の理解が不十分だったが、映画ではこの点が良く分かった。三角形△のピラミッドを通した光が、階下に逆三角形▽の聖杯を形作っているではないか。
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この両者を見ているトム・ハンクスの脳裏にマグダラのマリアの姿が浮かんできたのである。シオン修道会の総長であったルーブル美術館長がモナリザに隠されている聖杯をここに仕組んだと示唆していたのである。そういえば、この映画の冒頭にルーブルのピラミッドが登場し、「”これはパリの街の顔の傷痕である。・・・This is a scar in the face of Paris.”という人がいる」というクダリがあった。このプロローグがエピローグを予告していたのである。やはりダン・ブラウンはただものではない。後者では、トム・ハンクス(ラングトン教授)とオドレイ・トトゥ (ソフィー・ヌヴー )の抱擁写真が良く撮れている。
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今回の写真の中では、彼女の祖母の写真を上げる。ロスリン礼拝堂で、祖母はソフィーに①自動車事故でソフィーの両親と兄が死に、ソフィー自身も一旦は死亡したと報道されながら、奇跡的に助かったこと
②シオン修道会の総長ソニエールがキリストの最後の末裔であるソフィーを孫として育てたことを話したのである。
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ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》の机上には聖杯はなく、聖杯はイエスとその妻マグダラのマリアの間の▽だったのである。
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この映画のネタバレ記事としては、こちらが良く書けている。

美術散歩 管理人 とら

浮世絵動物園 後期 @太田記念美術館

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太田記念美術館で、「浮世絵動物園 後期」を見てきた。

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「浮世絵動物園 前期」の記事はこちらで、「浮世絵動物園 前期 説明図」はこちらです。

前期と後期で違ったことは、二つあった。①入館チケットが北斎から広重に変った。
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②浮世絵美術館のポストカードブックが発行された。
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展覧会の構成は下記のようである。床.動物肉筆画
1.動物百変化
2.暮らしの中の動物
3.祈りと動物
4.江戸流アニマルファッション以下、お気に入り作品を挙げていく。

・落合芳幾《猛虎之写真》1860:鶏を捕まえた豹が描かれている。
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・歌川広重《東都飛鳥山の図 王子道きつねのよめ入》1334-44頃:狐の新婦が駕籠に乗って桜満開の飛鳥山を行く。向かうのは王子稲荷神社なのだろう。「狐の嫁入り」なので、晴天に雨が降ってきた。
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・歌川広景《青物魚軍勢大合戦之図》1859年10月(↓、クリックで拡大):再見。
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この《青物魚軍勢大合戦之図》は、擬人化された「青物(野菜)」と「魚」の合戦を描いたもので、安政6年(1859)に板行されている。安政5年には、致死率の高い疫病のコレラが長崎から侵入して日本中に伝染し、3年間にわたって流行し「安政コレラ」と呼ばれた。

そこで、この絵の「青物」はコレラを予防する食物、「魚」はコレラを伝染する食物で、絵では両者の戦いをを示しているとされている。この絵解き図は(↓、クリックで拡大)に載せる。
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右側の青物軍は上から藤唐士之助(トウモロコシ)、蜜柑太夫(ミカン)、唐辛四郎(トウガラシ)、芋山十八(ヤマノイモ)、松田茸長(マツタケ)、砂村元成(カボチャ)、藤顔次郎直高(トウガン)、大根之助二股(ダイコン)。 右下から空豆之進(ソラマメ)、茄子三郎(ナス)、桑井永之進(クワイ)、甲斐武道之助(ブドウ)、宇利三郎(マクワウリ)、水瓜赤種(スイカ)、百合根十郎(ユリネ)。 左側の魚軍は、右の方から鰈平太(カレイ)、ほうぼう小次郎(ホウボウ)、海底泡之助(カニ)、初鰹之進(カツオ)、佐々井壷八郎(サザエ)、蛸入道八足(タコ)、戸尾魚次郎(トビウオ)、鯰太郎(ナマズ)、味物鯛見(タイ)、大鰭鮪之助(マグロ)、ふぐ三郎腹高(フグ)。もちろん青物軍(vegetarian)優勢の合戦である。

実際にはこれは青物と魚の戦争に「十二代将軍家慶の跡目争い」という将軍家の御家騒動、「南紀派=徳川慶福派=守旧派」と 「一ツ橋派=一橋慶喜派= 開明派」の争いを見立てた「風刺画」である。

「南紀派」としては、紀州の産物「蜜柑」は紀州出身の「徳川家福」、「藤顔(冬瓜)」は「橘」の旗差物を差した「井伊直弼」を表しており、画面の「青物=南紀派」である。一方「一ツ橋派」としては、「蛸」は水戸名産で「水戸斉昭」、「鯱」は一橋門の飾りで「一橋慶喜」、越前の名産「鰈」は「松平春嶽」、「鰹」は土佐の「山内容堂」を表し、「魚=一ツ橋派」である。ちなみに「二股大根」は、「南紀派」でありながら「一橋派」との繋がりもあった尾張の「徳川慶恕」である。

結果としては、将軍継嗣は慶福に決定した。すなわち「青物軍(南紀派)」の勝利であった。この絵を描いた歌川広景は、尊王攘夷派の「皇国有志連」 に脅され、文久3年頃に江戸を離れている。

・歌川芳虎《家内安全ヲ守 十二支之図》1858:子=鼠の顔、丑:牛の角、寅=虎の背、卯=兎の耳、辰=龍の炎、巳=蛇の尾、午=馬の鬣、未=羊の後脚、申=猿の足、酉=鶏冠、戌=犬の前脚、亥=猪の毛並み。(附)猫の足。
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書き込まれた狂歌は「うきたつや 虎にをき稲とり込ミて もううまいぬる ひつじさるころ」= 「卯き辰や 寅にをき亥子酉込巳て モウ(牛)午戌る 羊申ころ」。

・四代歌川国政《兎の草履打》1864~89:「草履打」は、浄瑠璃「加賀見山旧錦絵」の六段目の通称。局・岩藤が中老・尾上を草履で打って侮辱する場で、歌舞伎でも見せ場となっている。この兎絵でも立っている猫の手には草履が握られている。
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・歌川貞秀《蛸踊り》1838:4匹の蛸が浜辺で踊っている。団扇絵。
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・四代歌川国政《しん板猫のそばや》1873年10月:上段左:蕎麦打ち、上段右:蕎麦茹で、中段:店内客、下段:店外客や配達。玩具絵。
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・服部雪斎《サンセイウオ》1872年3月:明治5年、湯島聖堂で開かれた博覧会での説明図。
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・葛飾北斎《狆》1833:狆は奈良時代に新羅から輸入された犬で、現在は愛玩用として日本の特産になっている。赤いネッカチーフを巻いた狆の毛並が見事で、表情は穏やか。前足で毬を押えている。バックに描かれているのは黄色い蒲公英と赤い穂をつけた蓼。
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・歌川国貞《浄瑠璃つくし 傾城恋飛脚 梅川忠兵衛 新口村の段》1829頃:「梅川・忠兵衛」を題材とした浄瑠璃の最終段「新口村の段」は、逃げてきた忠兵衛と遊女・梅川の二人が忠兵衛の父に会い、そして捕まるフィナーレ。梅川の蝙蝠模様の衣装が今回のテーマとなっている江戸ファッションなのだが、蝙蝠は幸福を意味しているだけに、梅川の気持ちが痛ましい。
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美術散歩 管理人 とら

季節の花 @自宅の庭 2017/5/18

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「季節の花 @自宅の庭 2017/5/8」に続く「定点観測 5月 第2報」。

鉄仙

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露草
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令法(りょうぶ)
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デンドロビウム (Mother's day gift to my spouse)
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美術散歩 管理人 とら

挿絵本の楽しみ @静嘉堂文庫美術館

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静嘉堂文庫美術館で開催中の「挿絵本の楽しみ~響き合う文字と絵の世界」に行ってきた。この美術館の館長が河野元昭氏に変わり、いくつかの新機軸がみられた。①イヤフォーンガイドが準備されていた。
②イヤフォーンガイドには館長の説明もあった。
③大きな図録ではなく、ポケットガイドが作られていた。
④特別付録:おしゃべり館長による戯訳が配られた。
【展示構成】は以下の通り。錦絵の中の文字
Ⅰ.神仏をめぐる挿絵
Ⅱ.辞書・参考書をめぐる挿絵
Ⅲ.解説する挿絵
Ⅳ.記録する挿絵
Ⅴ.物語る挿絵主要な展示品は以下のようである。

錦絵の中の文字

・歌川国芳《新版錦絵当世美人合 杜若きどり・粂三きどり》文化2年(1815)頃:これらの錦絵の上部には文字が書かれている。ちなみに、杜若=五代目岩井半四郎 、粂三=三代目岩井粂三郎らしい。

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日本における「挿絵本」:日本では古くから絵巻物があり、「文字」と「絵」の共存は早くから見られたが、中国の技術が日本に入ってくると、錦絵となり、版の彫りの細かさは女性の髪の毛の表現として受け継がれた。錦絵では絵が主体で、文字は「コマ絵」に書かれる程度となった。中国の「文主絵従」が「絵主文従」に変化したのである。Ⅰ.神仏をめぐる挿絵

・「妙法蓮華経変相図」中国・南宋時代前期(12世紀)写:日本人にも親しみあるお経「法華経」を絵解きしたもの。仏菩薩や地獄の面々が、法華経の内容を解りやすく教えてくれる。本邦初公開!
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・善光寺本地 享保3年(1718):善光寺の本尊「善光寺式阿弥陀三尊」は、百済の聖明王を経て、わが国に渡来したとされる。廃仏派の物部氏によって捨てられたが、本田善光に拾われて、小山善光寺から信濃の元善光寺、次いで現在地に遷座したと伝えられる。
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Ⅱ.辞書・参考書をめぐる挿絵中国における「挿絵本」:中国は漢字、文字中心の文化で、絵を入れることに対して抵抗感があった。中国で絵が入るようになったのは、明時代(14~17世紀)以降、家柄や身分に関係なく受験できる官吏登用試験「科挙」が実施されるようになってからである。貴族にとって周知の知識であった礼儀や装束なども、科挙の参考書では記載する必要が出てきた。その際には文字だけでは無理があり、「挿絵」が盛り込まれるようになった。・「纂図互註礼記」中国・南宋時代(12世紀前半~13世紀後半)刊:儒教のテキストのひとつ、『礼記』の注釈書。語句の注釈と共に挿絵も添えられている。官吏登用試験「科挙」の受験参考書として作られた。
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・「訓蒙図彙」中村惕斎撰 江戸時代・寛文6年(1666)序刊:江戸時代前期に作られた百科辞典。1図につき、和名と漢名、短い注釈が付いている。子供向けに作られたものだが、精緻な絵と簡潔な内容で、後世に大きな影響を与えた。3本足の八咫烏が描かれているが、熊野本宮大社の鳥居の横には八咫烏の旗が掲げられている。
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Ⅲ.解説する挿絵

・「程氏墨苑」中国・程大約撰 明時代・万暦34年(1606)刊 :製墨師「程大約」による墨のデザインのカタログ。全部で515図あり、墨のデザインと文章が一体となって、単なるカタログにはない重厚感をかもし出している。掲出箇所は「竹林七賢」図。
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・「機巧図彙」細川頼直撰 江戸時代・寛政8年(1796)刊:時計や茶運び人形など、「カラクリ仕掛け」で動くモノの仕組みを丁寧に解説した本。細川頼直は天文・物理・数学などに精通し、西洋天文学も修め、改暦も手掛けた。
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・「本草図譜」岩崎灌園撰 江戸時代・天保15年(1844)頃写:日本で作られた最初の本格的な彩色植物図譜。本草学者である著者自ら観察した植物約2,000種を忠実に写生したもの。20年余りの歳月をかけて完成したもので、園芸種や外国産の植物も掲載されている。丁寧で詳しい解説付き。完成品は多くの大名家に納められた。
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・渡辺崋山《芸者図》天保9年(1838):館長による読み下し・現代語訳が別紙で頂けた。
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Ⅳ.記録する挿絵

・「東韃紀行」間宮林蔵述・村上貞助記 江戸時代末期(19世紀)写:間宮林蔵(1775-1844)は、幕府の命により文化5-6年(1808ー9)にかけて、樺太の西岸を北上し、樺太が島であることを発見するとともに(間宮海峡の発見)、黒竜江下流地域の東韃(とうだつ)地方まで調査を行った。本書は林蔵の黒竜江下流域探検について口述したものを村上貞助(1780-1846)が編集・筆録したもの。
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・「環海異聞」大槻玄沢編 江戸時代後期(19世紀)写:寛政5年(1793)、米と木材を積んで石巻から江戸に向かった船が難破し、アリューシャン列島に漂着。乗組員4名がロシアから帰国したのは、11年後の文化元年(1804)だった。本書はその記録。彼らを送って長崎に来たロシア使節レザーノフが日本に通商を求め、幕府は拒絶したが、この一件を契機に、幕府の北方への関心が急速に強まった。
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・「亜墨新話」前川文蔵・酒井貞輝編 守住貫魚画 江戸時代末期(19世紀)写:天保12年(1841)秋、13人の乗組員を乗せて兵庫から奥州に向かった船が難破。4ヶ月余の漂流の後にスペイン船に救助されてカリフォルニアに上陸し、その後メキシコに入った。本書は、2年後に帰国した乗組員の一人、初太郎の報告を基に作成された。
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Ⅴ.物語る挿絵

・「琵琶記」中国・高明撰 明時代・万暦(1573-1619)刊 :中国元代末(14世紀後半)に作られた戯曲。後漢の学者蔡邕(さいよう)とその妻をめぐる波乱に満ちた物語は、この分野での最高傑作の一つに数えられている。また、挿絵の彫りも極めて精緻で、当時の技術の高さをうかがえる。掲載箇所は、夫の行方を捜すために、一人、琵琶を背負い都に上る妻の姿。
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・「伊勢物語」室町時代中期(16世紀)写:日本を代表する貴公子、在原業平の優美で優しい姿を伝えてくれる作品。文字と絵のハーモニーが美しい。掲載箇所は、山崎より遠い水無瀬の離宮で、桜の木の下で歌を詠みあう惟喬親王、業平、友人などの姿。

在原業平の歌は「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」(世の中に桜なんて無ければよい。そうであれば、桜の散る姿に心乱されることもないのに)。

ある若い貴公子(詠み人知らず)が詠んだ返歌は「散ればこそ いとど桜は めでたけれ うきよになにか 久しかるべき」(桜は散るからこそ良いので、憂えることばかりあるこの現世に、いつまでも留まり続ける意味はないでしょう)
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・「羅生門」江戸時代前期(17世紀):奈良絵本。平安時代中期、丹波の国の大江山に酒呑童子という鬼が住んでおり、手下を従えて悪業の限りを尽くしていた。酒呑童子は手下の茨木童子を羅生門につかわして乱暴を働かせ、良民を悩ませていた。それを退治する為に、源頼光は四天王の一人・渡辺綱を羅生門へと向かわせた。渡辺綱は茨木童子と激しい戦いを演じ、童子の左腕を切り落とした。茨木童子は命からがらに大江山に逃げ帰った。酒呑童子はその左腕をとり返さんと自ら渡辺綱の乳母に化けて乗り込み、茨木童子の左腕を見つけて取り戻し、茨木童子の左腕にを元通りにしてやった。はばかられたと知った渡辺綱が酒呑童子・茨木童子と決戦しているところに、源頼光が助太刀に現れる。
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【参考】美術における絵と文字の統合ー高階秀爾氏講演会

・西洋美術における絵と文字の統合(高階秀爾氏講演会):ルネ・マグリットの《これはパイプではない》という画は「このパイプは画だから、これからタバコはすえない」というマグリット特有のユーモアであるが、CET N’EST PAS UNE PIPEという文字板はパイプの画の下に貼りつけられた形で描かれている。
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西洋絵画ではルネッサンス以降、絵と文字が混ざり合うことはなかった。中世の写本ですら絵と文字は別々なものとして作品を構成していた。ロセッティやミレイのようなラファエル前派の画家はテニソンの詩集《シャーロック》に挿絵を描いているが、これでも画と詩が上下に分かれた配置となっている。ウリアム・モリスは字と画を一体化しようと出版社に働きかけたが、できあがったものはやはり別々なものであった。

・日本美術における絵と文字の統合(高階秀爾氏講演会):日本では、本阿弥光悦筆・俵屋宗達下絵の《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》のように絵と字の統合が完成している。字の大きさ、配置などが「散らし書き」になっているのである。
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これは日本では絵と書のいずれにも筆を使うということと関係がある。これを模倣した日本の和歌の翻訳集《蜻蛉集》が、1884年パリで刊行された。西園寺公望がまず翻訳し、前述のJudith Gautierがこれを直し、山本芳翆が画を描いたもので、字の大小といい、配置といい、みごとな散らし書きとなっている。この本は当時評判となったらしく、ギュスターヴ・モローも購入したとのことである。マラルメは、《Le Hasard》において活字による散らし書きを試みているが、これはヨーロッパでは前衛であった。アポリネールは、《Il Pleut》において活字による絵文字作成に挑戦している。でき上がった冠、ハート、雨などは結構上手いが、活字による雨の線などはやはりギクシャクしている。

美術散歩 管理人 とら

ニューサマーオレンジ

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愛媛県産のニューサマーオレンジをトライしてみた。
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第1印象は、①ジューシーさ(+++)、②甘味(--+)、③酸味(++-)、④内皮(+++固い)、⑤種(+++多い)↓
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Wikipediaによると、これは「日向夏」と呼ばれていたもので、以下の特徴がある。

・原産地は宮崎県で、1820年に宮崎市の真方安太郎の邸内で偶発実生として自生しているのが発見された。発見時には酸味が強く、食べられることはなかったが、その後に広く栽培され始めた。

・現在は宮崎県以外でも栽培されているが、他県では「小夏」・「土佐小夏」・「ニューサマーオレンジ」という別称で出荷されていることが多い。

・宮崎県の木原果樹会が1992年から宮崎大学農学部の指導の下に温室での「種なし栽培」に取り組み、その結果「種なし日向夏」ができるようになった。

・「日向夏」は「柚子」が突然変異したものと考えられている。

・ 6月頃に成熟する果実は温州みかんよりやや大きく、 表皮は黄色で厚さがあり、果肉は酸味があり甘さが控えめで独特の風味が強い。 どちらかというと、グレープフルーツやレモンの味に近い。 表皮は温州みかんと比べるとでこぼこが少なく、のっぺりとしている。

・他の柑橘類とは違い、果実の表皮における白い部分(内果皮、アルベド)もそのまま食べられるので、 皮の黄色い表面(外果皮)だけを薄く剥いで食べるほうがよい。 この白い部分は、繊維が多くふかふかとした食感であり、苦みや渋みはない。

・国内収穫量(2010年)は5,714 トンであり、その内訳は宮崎県55%、高知県28%となっている。

【感想】

・白い部分(内果皮、アルベド)は、とくに上手くない。

・「ニューサマーオレンジ」というカタカナ名は紛らわしい。和訳すると「新夏みかん」だが、文旦類の「夏みかん」とは大分違うし、文旦類の「美生柑」は「ジューシーオレンジ」とも呼ばれている。

【柑橘類の分類】

・オレンジ類:オレンジ・ネーブル
・グレープフルーツ類:グレープフルーツ・オロブランコ
・みかん類:温州みかん・ぽんかん
・文旦類:文旦・水晶文旦・夏みかん・甘夏・八朔・晩白柚・美生柑
・レモン類:レモン
・香酸柑橘類:柚子・スダチ・ライム・日向夏
・タンゴール:清見・伊予柑・デコポンなど「みかん・オレンジ交雑種」
・タンジェロ:ミネオラ・セミノールなどの「交雑種」

美術散歩 管理人 とら

版画家・一原有徳 @日曜美術館

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Wikipediaによる「一原有徳」の概略は次の通り。 •1910年、徳島県那賀郡平島村(現阿南市)に生まれる。
•1923年、北海道通信社入社に伴い、小樽市に移住。
•1927年、小樽高等実修商科学校(夜間)に約五年間修学。1927年郵政省小樽貯金支局に事務員として入局し、以後43年間勤務。
•1951年、この頃から油絵を始め、後に版画に転じる。
•1960年、土方定一の知遇を得て、その推薦で東京画廊個展でデビュー。
•1970年、郵政省小樽地方貯金局を定年退職。
•1979年、北海道現代美術展優秀賞受賞。
•1980年、小樽市教育文化功労賞受賞。
•1988年、神奈川県立近代美術館(別館)で、回顧展「現代版画の鬼才 一原有徳の世界」を開催。
•1990年、北海道文化賞受賞。
•1998年、徳島県立近代美術館・北海道立近代美術館で、回顧展「一原有徳・版の世界」を開催。
•2010年10月1日、老衰のため小樽市内の病院で死去。100歳没。
•2011年、小樽美術館に一原有徳記念ホールがオープンする。
日曜美術館「人のやらないことをやる!~版画家・一原有徳の挑戦~」の番宣は次のようである。水滴なのか、はたまた細胞なのか・・・。まか不思議な模様が広がる画面。それまでの常識にとらわれない斬新な版画を作ったのが"現代版画の奇才"と呼ばれた版画家・一原有徳(いちはらありのり:1910~2010年)です。

北海道小樽市にある旧郵政省・貯金局で働きながら創作を続けた一原は40代の頃から油絵を描くようになります。ある日パレット代わりに使っていた石版の上に偶然あらわれた絵の具の模様に強く心惹かれました。とっさに紙を乗せて写し取ると、そこには、コレまで観たこともないような独特の世界が広がっていました。

一原は偶然が生み出す表現の虜になります。石版の上にインクを塗りそれを自在にかき回しそして写し取るという「モノタイプ」と言う版画の技法を追求し、やがて世界的に知られる存在となりました。この時すでに50歳。ここから怒濤の創作が始まったのです。

一原は創作にあたって、作品に何らかのイメージを込める事を極度に嫌いました。それは、既存の意味や表現の模倣になりかねないと思ったからです。さらに新しい世界を求めた一原が目をつけたのが「金属の腐食」でした。薬剤を使い版を腐食させてできた模様を求め実験を繰り返します。貯金局の地下にあった作業場は”実験工場”となりました。自然にできた「金属のサビ」さえも版画の素材として取り込むなど、常に新しい技法を追い続ける事で自らの理想へと突き進みました。一原は100歳で亡くなるまで旺盛な探究心を持ち続けた"美の探検家"だったのです。

「果たして、イメージを完全に排除した作品は可能なのか?」番組では一原の生涯をかけた実験を追います。

【出演】脳科学者・茂木健一郎、世田谷区美術館長・酒井忠康【司会】井浦新、高橋美鈴【参考】一原有徳 作品ページ、神奈川県立美術館 一原有徳ページ 

【とらのメモ》
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・一原有徳は、抽象版画の作家であるが、「人のやらないことをやる」をモットーとして、
版画の概念を超える「実験」を行っていった。

・酒井忠康世田谷美術館長の意見では、一原が体当たりしてできたものが作品になっており、版画を通して「実験」していたといえる。

・作品は市立小樽美術館に多数残っている。

・42歳の一原は、勤務先であった「小樽貯金局」の油絵サークルに入った。そこで描いた《湿地帯》は具象画だったが、《枯死帯》は非現実絵画だった。

・一原の転機は、貯金局に残っていた石板を見つけたことだった。これをパレット代わりに使ってインクを付け、箆で削りとると模様が残る。この石板に紙を載せて擦って、紙を剝がしてみると、今までに見たことのない世界が現れた。「モノタイプ」という版画手法の登場である。一原は、2年間この実験を繰り返し、総数1万点の作品を制作した。
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一原は、イメージや意図を持って制作すると、結局は先人を追うことになると考えて、ネジや釘のような金属をフイゴで加熱して紙に写し取る「熱板」と呼ぶを開発した。インクと決別したのである。
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一原は、この方法でもイメージや意図から離れられないと知って、「錆を利用する方法」も利用した。工事現場の錆を使った《FH3》や屋根のトタン板の錆を使った《Fb(hi)1》などがそれに当たる。
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一原は、100歳まで生きた。「一原は版画との付き合い方を上手に生きた」(井浦新)とも云えるし、「版画が一原が生きた痕跡であった」(茂木健一郎)とも云えるし、「一原は自己表現を求めた本当のアーティストだった」(酒井忠康)とも云える。

美術散歩 管理人 とら

ミネオラ(Mineola) 

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柑橘類はわたしの好物だが、今日の朝食に登場したのは「ミネオラ」。

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ということで、早速「ミネオラ」の研究をしてみた。

ミネオラの分類:「タンゼロ(タンジェロ)」に分類される。タンゼロとは、グレープフルーツ(またはブンタン類)とミカン類の交雑で生まれたもので、仲間には「スイートスプリング」や、姉妹品種の「セミノール」がある。

ミネオラの親の組み合わせ:「ダンカングレープフルーツ」×「ダンシータンジェリン」

ミネオラの生い立ち:アメリカ・フロリダ州のアメリカ農務省で育成され、1931年に発表された。「ミネオラ」という名称は、フロリダ州にあるミネオラという地名にちなんでいる。

ミネオラの特徴:皮は赤みがかったオレンジ色をしていて、頭の部分がデコポンのように盛り上がることがある。サイズは150g前後で、果肉はやわらかくて甘みが強く、適度な酸味もあって濃厚な味わい。オレンジのような香りがあり風味豊か。

ミネオラの選び方:濃いオレンジ色はミネオラの特徴なので、全体的にきれいに色づいたものを選ぶ。また、皮に張りがあり、持ったときに重みを感じるものがおすすめ。果肉と皮の間に隙間ができる「浮き皮」になっているものは避けたほうが無難。このような状態のものは傷みやすく食味がやや落ちることがある。

ミネオラの保存方法:風通しのよい涼しい冷暗所で保存。日持ちは5日~1週間くらいが目安。

ミネオラの食べ方:手でむけるがナイフを使うほうがよい。じょうのう膜(薄皮)が薄めなので袋(薄皮)ごと食べられる。なお、輸入品の柑橘類は防カビ剤が使われていることがある。よく洗ってから皮をむき、手を洗ってから食べるとよい。

ミネオラの旬:カリフォルニア産のものが2月下旬頃から5月頃に出回る。

美術散歩 管理人 とら

浮世絵動物園 補遺

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浮世絵動物園展について書いたブログ記事は、下記の3本であるが、ここではそこに書ききれなかった事項について「補遺」として書くこととする。前期・説明図・後期・歌川広重《月に兎》嘉永2-5年(949-52) 前期展示:無線摺。

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参照 歌川広重《菊に雉子》・《紫陽花に川蝉》 後期展示
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錦絵は墨の輪郭線とその中を埋める色面でできているが、「無線摺」では輪郭線(墨線)を廃して色の面のみで摺る。

・歌川国芳《木莬に春駒》天保(1830-44)頃:疱瘡絵。前期展示「はなばなを ずくのめでたき はるのこま」
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参照:疱瘡絵 非展示
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江戸時代には、流行した疱瘡の魔除けとして、疱瘡に対する呪色の赤色で摺られた浮世絵があり、これらは総称して「疱瘡絵」または「赤絵」と呼ばれていた。赤は太古から魔除けの色として信じられ、疱瘡罹病時に身体に出る発疹が赤色だと軽症、黒色だと重症といわれていた。このため、罹患しても病状が軽くあってほしいとの願いから浮世絵には赤色が好んで用いられた。「歌川国芳」がこの手の作品をたくさん描いていて、画題としては、目が丸く大きな「みみずく」、倒れてもすぐに起き上がる「達磨」、病状が軽く済むように「張り子の犬」「でんでん太鼓」「風車」、その強さにあやかろうと「鎮西八郎為朝」「和藤内」「金太郎」「桃太郎」などがあてられている。疱瘡絵は、治療法がなかった江戸時代、病状が軽く他人に伝染しないようにと願い部屋の壁などに貼って使用された。

・筆者不詳《鼠の相撲》安永9年(1780)前期展示:絵暦(大小暦)。安永九年の干支は「庚子」。大の月(白丸赤字)が、二月・四月・六月・九月・十一月、小の月(赤丸白字)が、三月・五月・七月・八月・十月・十二月。
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西方の鼠相撲取の赤褌前垂に「庚」の白抜き文字。行司は、七福神の一柱で、鼠と縁の深い「微笑の相の大黒様」。軍配には「大根」。柱には弓と矢。

土俵下には、大黒の持物の「福袋」や「打出の小槌」。大黒は食物・財福を司る神だが、「大国主命」の信仰と習合して「微笑の相」が加えられた。

「福袋」を背負っているのは、因幡の白兎の説話で八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたため。大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に「鼠」が助けたという説話から、「鼠」が大黒天の使いとされる。「大根」は、「大黒天」や「大国主命」との音の類似による。

歌川芳藤《兎の相撲》 後期展示
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絵暦とは、江戸時代に流行した絵入りの暦。毎年春に発行する暦のうち,月の大小を示すため判じ物風の趣向を凝らした版画。明和2(1765)年新春、狂歌師たちが大小絵暦の摺物交換会を開催。文人や好事家たちは絵暦の意匠をみずから描き、また絵師に描かせ、優れた彫師・摺師に技巧のかぎりを尽くさせて作品を競い合った。そのため絵暦における版画技術が急速に進歩し,木版画多色摺の錦絵の誕生に大きな影響を及ぼした。

・服部雪蔵《ウチハフグ》明治5年(1872)2月 前期展示:博覧会説明図。
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服部雪斎《サンセウウヲ》後期展示:博覧会説明図。
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美術散歩 管理人 とら
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